ひさみをめぐる冒険
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ひさみをめぐる冒険
サンフランシスコ・シリコンバレー在住マーケターのINSIGHT(洞察)



ひさみの超私小説⑤:私の日本での最後のキャンペーンは"Beauty Isn't About Looking Young(美しさは年齢と無関係です)"

4/18/2021

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私の超個人的なお話⑤。前回の④では、父の死や母に結婚を告げたエピソード、米国移住を決意した結果起きた周囲の声「英語のできないお前は米国ではコンビニのキャッシャーぐらいしか務まらない」など、日本の当時の男性中心の企業社会をまとめた。今回は日本のエージェンシー時代のエピソード、結婚式、ハネムーンで降り立ったSFの空港で不法長期滞在と疑われたことなど、盛りだくさんな出来事を記す。
「女主人公の銃の撃ち方がリアルなので」と答えて、Cliniqueの担当営業となった私​

1980年、社会人2年目の私はニッカウヰスキー担当チームに配属されていた。チームは、この年外資系化粧品ブランドのCliniqueのアカウントを獲得した。クライアントは部長を除いて、課長以下、担当者は全て女性だった。課長が、真っ先に「化粧品のブランドを扱うチームに、何故女性の担当者がいないのか?」と、鋭く指摘してきた。

今でも覚えているが、応接室にお茶を出していた私を捉まえて、課長は「大柴さんはどんな映画が好き?」といきなり質問してきた。私は、何のためらいもなく丁度見たばかりで物凄く気に入っていた映画『Gloria』を挙げた。

​課長に「何故その映画が好きなの?」と聞かれ、「マフィアの秘密を売ろうとして惨殺された一家の男の子を助けて、NY中を逃げ回る主人公のGloriaの銃の撃ち方が物凄くリアルだったこと。さらに子供嫌いのGloriaが、徐々に母性本能が芽生えて、子供を必死に守ろうとする演技が非常に良かったから」と答えた。
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『Gloria (1980) 』 監督John Cassavetes 主演女優Gena Rowlands

課長と担当者たちは、私の答えにニヤリと笑って、「大柴さんに是非うちの担当になってもらいたい。チームに女性は必要です」と、ニッカウヰスキー担当の部長に告げた。

後にこの指名の理由をクライアントに聞いたが、
彼女は「あなたの視点は他の人と全然違う。そのユニークな発想こそ、当時のCliniqueが他の化粧品ブランドと差別化するのに必要だと直感したから」と説明された。

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勿論、クライアントは、私の大学の専攻が「マスコミュニケーションと広告」だったことを知っており、さらに当時のエージェンシーの女性社員の役割も十分理解した上で、あえて私を指名してきたと思う。

「皮膚医学に基づいたシンプルなスキンケアシステム」という新しい概念をWorking Womenは歓迎した​

Cliniqueは、1967年8月Vogueの編集者Carol Phillipsが、皮膚医学者にインタビューした記事“Can Great Skin Be Created”をきっかけに誕生した。そのコンセプトは、当時の化粧品とは全く異なる考えで「肌には自らのチカラで良くなる能力がある。それを引き出すために、皮膚医学に基づいたシンプルな3ステップを、朝晩2回歯を磨くように 実施すればいい。無香料、アレルギーテスト済み」というものだった。
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当時米国のスキンケアは、富裕層の女性達がElthabeth ArdenのRed Doorに代表される美容サロンで受ける高価なもので、一般の女性達には縁遠く、CliniqueのコンセプトはWorking Womenに大きな反響を呼んだ。彼らのマーケティング活動は、アメリカを代表するファッション写真家のIrving Pennが撮影した大胆な製品写真とウィットのきいたコピーで、一切モデルを使わなかった。

1970年代後半日本市場に参入したCliniqueは、皮膚医学に基づいたシンプルンなスキンケアの3ステップ、SPF(Sun Protection Factor)という数値を基に紫外線の悪影響から肌を守るという、科学的なスキンケアの概念をもたらした。当時、日本の化粧品業界は、王者資生堂にカネボウが故夏目雅子の水着姿の「クッキーフェイス」キャンペーンで挑戦して、注目を集めていた時代。​Cliniqueは革新的でアンチテーゼともいうべきコンセプトで市場参入を果たした。

私は大学時代から、女友達が肌のトラブルで悩んでいたが、Cliniqueを使いだして、肌が良くなっていったという事実を目にしており、自分が信じられるブランドの担当になれたと思い、有頂天となった。
"Beauty Isn't About Looking Young(美しさは年齢と無関係です)"

1980年のCliniqueの年間広告支出額は2億7,000万円で、15年を経て1995年私が退社する頃は30億円以上となっていた。当時は4大マスメディア(TV・新聞・雑誌・ラジオ)を中心とした広告展開がメインで(携帯電話もインターネットもソーシャルメディアもない時代)、雑誌広告主体の化粧品業界は、雑誌広告の表2を獲得するために、莫大な札束合戦を繰り広げていた。

​Cliniqueはこの15年間で、Estee Lauderグループの豊富な資金力と製品開発力を活かし、デパートの売り場面積の拡大(=売上の拡大)に比例するかのように広告費を増やし、外資系化粧品ブランドではNo 1の地位を確立した。この15年間のマーケティング戦略や活動の詳細を書こうと思えば幾らでも書けるが、先がまだまだ長い私の超私小説では、詳細には触れないでおく。

そんな中で1つだけ言及したいことがある。私が最後に手掛けたキャンペーンで、これは、まさにClinique及びその後の私の生き方をそのまま表現したようなコンセプトだった。

"Beauty Isn't About Looking Young(美しさは年齢と無関係です)"というタグラインを掲げて、「若く見える」ことが、女性の美しさにとって最も重要だという、当時の日本社会の常識に対して、強いメッセージを投げかけた。
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「女性は各々の年齢にあったその人なりの美しさがあり、年齢とは単なる数字でしかない。Cliniqueはその人のもつ肌の自助作用を引き出して、その人にとって最良の肌を作り出す」といったアプローチで、様々な年齢の女性達を広告に登場させた。

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今でいうところの女性のSelf esteem或いはEmpowermentを促すためのキャンペーンで、これを30年近く前に企画実施したCliniqueの先見性は鋭い。米国本社でCliniqueが展開していたこのキャンペーンを、日本でも実施できたことは、私の日本での最後の仕事として、感慨深いものがある。

1995年は阪神・淡路大震災、地下鉄サリン事件と連続して大事件が起こる激動の年となった

1995年1月17日、マグニチュード7.3、被害者6,434人を出した阪神・淡路大震災が起きた。その後の2011年3月11日の東日本大震災を経験する前まで、この震災の凄まじさは多くの人達を震撼させた。そんな激震で始まった1995年、私は結婚式は桜の樹の下で挙げたいと決めており、青山にあったデヴィ夫人の元の邸宅が借りられることを発見して、4月8日のお釈迦様の誕生日に予約した。桜の樹が至る所に植えてあり、ゴルフのパッティングができる広い庭、建物内部には螺旋状の階段があるといった、ドラマティックな洋館だった。

当時平日は国分寺の実家で過ごし、金曜日は仕事を終えるとそのまま列車で夫となる彼の赴任地に赴き、週末を一緒に過ごして、月曜日の始発に乗って会社に出社していた。1995年3月20日の月曜日、いつものように赴任地の始発の列車に乗り、地下鉄の銀座線に乗り換えて、京橋へ向かおうとした。通常は混雑する車内に乗客は殆どおらず、何か異変があったとは思ったが、当時携帯電話もインターネットもない時代で、地下鉄車内では情報の取りようがなかった。

この日は午前8時頃ラッシュ時の混雑を狙って、オウム真理教の麻原教主の指示によって、神経ガスのサリンが散布されて、乗客・駅員14名が亡くなり、負傷者は6,300名にものぼる大事件が起きていた。私が京橋駅に着いた時間は午前9時過ぎで、危機一髪ともいうべきタイミングで、サリン散布の遭遇を免れた。会社に着いて事件の概要を知り、その恐ろしさに身震いしたことを思い出す。
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春の嵐を経て、4月8日は満開の桜が咲いた

私は西行法師の「願わくは 花のもとにて 春死なむ その如月の望月の頃」の歌が好きで、子供の時から、結婚式という死と無縁であるイベントを、桜の樹の下で挙げるイメージが、アタマにこびりついていた。

私達の結婚式は、一切プロの手を借りずに、私自身が全て計画し、「製作・脚本・監督・主演」という4役を実行した。式の会場や招待客の選択、招待状のデザイン・印刷、料理・引き出物・花々の手配、式のタイムスケジュールなど、全て私が指示・交渉した。式の前日は春の嵐となり、周囲から庭園にテントを用意したほうがいいと忠告されたが、私は頑固にそれを固持し、「私は晴れ女!明日は絶対晴天になる」と突っぱねた。翌日は、輝く青空の下で、見事な日本晴れとなり、桜は満開に咲き誇った。

既にメイクアップも終えてウエディングドレスを着ている私のところに、「大柴さん、講談社と集英社の社長から祝電が来ています、どっちを先に読み上げますか?」とか、「洋館内の音響の具合が悪いので、音楽を流すのは厳しいかもしれませんが、どうしますか?」などと言った声が、ぎりぎりまで聞こえてきた。仕舞には、私の介添え役として動いていた女友達は、「彼女を花嫁にしてやってください。ここから出て行ってください」と、叫ぶ始末であった。

最後の10分間の静寂の中、やっと花嫁の気持ちになれた私は、弟の腕にすがって、庭園に敷き詰められた白いヴァージンロードに向って歩きだした。その後は、まさに私らしくもなく、生涯に1度だけ女性が、プリンセスのような気分になって舞い上がる姿そのままで、無事に結婚式を終えた。
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違法長期滞在の疑いで、SFの空港で別室に連れて行かれた私

日本での新婚旅行は蔵王で、ゴンドラに乗って山頂に建てられた「スターライトホテル」というロマンティックな名前の宿に泊まり、4月9日という季節外れで誰もいないゲレンデで、スキーを楽しんだ。

7月末の正式な退社までにやるべきことは意外と多く、正式な結婚届を提出し、夫のLast nameをカタカナ読みした新たな戸籍を作成し、私は戸主となり、夫は戸籍の欄外にカタカナでFirst nameが表記された。パスポートも大柴姓から、カタカナ姓に変更した。夫の来年以降の勤務地が未定でもあり、その確認と米国でのハネムーンを兼ねて、8月夫の会社の本社のあるSFベイエリアに向った。3か月は観光ヴィザでいられることが念頭にあり、帰りの日付がオープンのままのチケットを持ったまま、SFOに降り立った。

税関で、夫は市民、私は訪問者の窓口で分かれて、通関しようとしたが、検査官は私のパスポートを見て不審な顔をしながら、帰りのチケットを見せろと言ってきた。私はいつ日本に戻るかをまだ決めていないので、帰りのチケットの日付はオープンで、それは夫が持っている、その件は彼が説明すると答えた。検査官は、いきなりトランシーバーで係官を呼んで、私を別室に連れていけと指示した。すでに通関していた夫が、不穏な空気を察知して、駆け付けて、結果2人で係官の後に従って、別室に入った。

係官は、私が既にLast nameを変えたパスポートを持ちながら、帰りのチケットの日付がオープンなのは、このまま米国に違法で長期滞在することを計画していると、詰問してきた。夫がいくら事情を説明しても納得しない係官は、パスポートを取り上げて、弁護士と一緒に指定する期日に再度来て、質問に答えるとようにと、言い放った。

夫は「アメリカ人と結婚しても、日本で結婚届を出さずに日本名のままのパスポートを保持し、日米を悠々と行き来している多くの不法な人がいる。そんな中で、正式な手続きを経た人間をこのように扱う。なんなんだこの不合理は!」と激怒した。

私の米国でのハネムーンは、こうした手ひどい歓迎を受け、惨憺たるスタートで始まった。
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次回以降は、その後の26年間の米国における私の山あり谷ありの飛んでもない人生を語ることにする。


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ひさみの超私小説④:「英語のできないお前は米国ではコンビニのキャッシャーぐらいしか務まらない」と言われた

4/10/2021

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私の超個人的なお話④。前回の③では、昭和天皇の戦争責任と恐竜の化石の寄付という2つのエピソードで、夫となる男性の「人間性(Humanity)」を確信し、結婚を決意したことを書いた。今回は結婚を家族や会社に告げたことによって起きた出来事を記す。
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私の独立は父の病気で急遽取りやめとなる

私の父は1989年64歳で肝臓癌で亡くなった。母は当時まだ54歳という年齢で「未亡人」という立場になってしまった。但し、幸運なことに母は当時働いており、父を失った後も仕事を続けることによって、心の傷痕を癒すことが可能だった。父が亡くなる1年以上前、私は実家から出てアパートメントを借りることを決意した。当時最もお洒落だった雑誌『カサ・ブルータス(Casa BRUTUS)』で、羽根木公園近くのロフト付きのアパートメントを見つけ、早速両親と一緒に、アパートメントを内覧した。玄関から中に入るとまずDKで、1-2段のステップを上がると、リヴィングルームへと続く。またそこには梯子がかかって、それをよじ登るとロフトのベッドルームとなる。そのロフトの窓から這い出るように外に出ると、屋上にでるという、非常にユニークな作りだった。

母は開口一番「これは酔っぱらって帰ってきたひさみが、この梯子で落ちる可能性があり、危ない」と警告を発した。父は「ひさみの好きなようなさせてやればいい。俺はたまにここに遊びに来て、近所の羽根木公園でやっている野球を見るよ」といって、ニコニコ笑っていた。その後、3人で少年野球を見た後、梅が丘の駅前の有名な「美登利寿司」でお鮨をつまんで帰った。私はこの最新のお洒落なアパートメントでの生活を思い浮かべて、ワクワクしたことを思い出す。

内覧直後だったと思う、父の検査で訪れた、聖マリアンナ医科大学の医師が、母と私だけを別室に呼んだ。当時、患者に直接病状告知をするケースは稀で、医師は申し訳なそうに、父の命はあと1年しかもたないと言った。真っ青な顔で戻った母と私に、父は「どうだった?」と尋ね、私は即座に「治療に時間がかかるみたい。入院する必要があるの、お父さん」と答えた。父は、その時、ちょっと悲しげで乾いた微笑を浮かべて「そう、了解」と答えた。

或る日、父の見舞いに来た私は、病室のベッドが綺麗に整頓されて、父が見当たらず、頭が真っ白になった。父は戻ってきて「ベッドにいなくて驚いた? ごめんね」と照れ臭そうに謝った。父は自分の命の限りを既に察知していたが、私たち家族には「知らないフリ」をしていたと思う。1989年1月7日昭和天皇が崩御した頃、自宅に戻った父の病状は徐々に悪化し、2月24日の大喪の令の日、父は吐血して、そのままICUに運ばれた。私たち家族は、ICUの待合室で大喪の礼を見て、その後5月6日に亡くなるまでの2か月半、母と弟と3人で、24時間3交代で病院に寝泊まりして、父の最期を看取った。

医師は意識不明になっていた父は、痛みを感じないからといって、モルヒネを打ってくれなかったが、父の苦しんだ動物のようなうめき声を聞いて、看護婦さんに頼んで、何度か打ってもらった。父の解剖結果を見た医師は、「大柴さんは身体中に癌が転移していて、普通ならばとっくに亡くなっている状態だった。心臓が強靭だったために、簡単に死ねずに随分苦しまれたようです。痛みを感じないなどと言って、申し訳ありませんでした」と謝った。
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父の最期の言葉「ひさみ、次はアメ車を買いなさい。大きくて馬力があって頑丈でいい」

父との最後の会話がとても印象的だった。「ひさみ、車を持ってきて。家に帰りたいんだ。車はアメ車がいいなあ」。「あれ、お父さんはアメ車はあんまり好きじゃなかったじゃない?」「いや、アメ車がいい。大きくて馬力があって頑丈だから。ひさみ、次はアメ車を買いなさい」。この言葉がアタマを離れず、父の葬儀で遺体を火葬場まで運ぶ車は、キャデラックを選んだ。

私は父の死後6年経って、アメリカ人(彼は189㎝と背が高い)と結婚することになるが、ふとこの父の最期の言葉を思い出し、「お父さんは知っていたんだ、私がアメリカ人を選ぶことを」と確信した。

結婚式の当日、父の弟たち(私の叔父達)は、「ひさみの旦那は、アメリカ人なんだけど、みっちゃん(父の呼び名)にそっくりだね。みっちゃんはひさみを目の中に入れても痛くない程可愛がっていたし、ひさみはやっぱみっちゃんみたいな人を選んだね」と口々に話していた。

父は1925年(大正14年)1月1日に生まれて、昭和が終わった1989年5月6日に64歳で亡くなった。父の人生は、激動の昭和の64年間そのままだった。病状が悪化する父に「お父さん、平成っていうのが新しい年号だよ」と告げると、父は「平成?そんなの、俺は知らねえや」と呟いていた。
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PS:夫は19歳で学生結婚をしており、彼の前妻の父親も1月1日生まれだった。夫は良く「僕は1月1日生まれの父親を持つ女性としか結婚できないらしい」と冗談を言う。
母の気持ちと片道切符代わりの指輪

結婚に関しての気持ちが固まった私は、この件をどのように母に話そうかと思い悩んだ。

当時、彼は「まだ暫くは日本勤務が続くと思うけど、2-3年後には米国のSFべイエリアに戻る。そうなったらどうする?」と、聞いてきた。彼は、これまで1つの業界一筋でキャリアを積み上げてきた人で、当時世界有数の大企業に勤務していた。身体の大きい彼は、夏でもサングラスをかけず(自分がサングラスをかけると日本の人に威圧感を与えるから)、電車に乗る時もなるべく身体を小さくするといった気配りを見せる人だった。私は、彼が今の会社を辞めて、日本でどんな職業があるんだろう? とても駅前留学Novaの英会話教師として暮らす姿は、想像できなかった。

「私は今の会社を退社して、あなたと米国に行きます」と告げると、「女性広告営業のパイオニアとして成功を収めたキャリアを、本当に捨てられる?」と、念を押された。米国移住後、仕事に関しては、度々厳しい鉄槌を下される私だが、16年間で築き上げた日本でのキャリアへの自負が強く、当時その甘さに一切気が付かなかった。

まずは、弟に結婚のことを相談した。「今アメリカ人と付き合っていて、結婚を考えているの。つまり米国に移住することになるんだけど、お母さんを残して行く気にはなれない。」。「姉貴は本当にその人に惚れてるだろう? だったら、米国に行った方がいい。俺がお母さんの面倒は見るから、心配しなくていい。」と弟に背中を押された。「あんたが、そう言ってくれるんだったら、決心できる。お母さんのことだけが心配だったの。ごめんね、こんな大きなコトをあんたに背負わせるようになってしまって」。弟は「大丈夫」とニッコリ笑った。

母の表情の変化が、全てを物語っていた。彼女はアタマと心の中で、私がアメリカ人と結婚することによって、今後の自分の人生にどんなことが起こるかという事実を、必死に咀嚼しているようだった。但し、私が経緯を話し終えると、彼女は「分かった。とうとう結婚を決意したのね、良かった。お母さんはとっても嬉しい。私のことは何も心配しないで、好きな人と一緒にアメリカに行きなさい」と、きっぱりと告げられた。

母は、私の結婚祝いに指輪をあげると言いはり、2人で銀座の宝飾店に出かけた。正確には覚えていないが、当時の金額で30万円ぐらいかかって、綺麗な青碧色の石と18金のイタリア製のバンドを組み合わせて、指輪を作ってもらった。母は真顔で指輪を渡す時「ひさみ、アメリカでどうしてもこれ以上いられないと思ったら、この指輪を売って、飛行機の片道チケットを買って帰ってきなさい。我慢しなくていいんだから」と、私に言い含めるように言った。米国移住をする娘の将来への不安は隠しきれず、もしものことを考えた母の気持ちだった。

非常に悲しいことに、その指輪は、後年自宅のクリーニングサービスをする女性に盗まれてしまい、今は母の指輪の思い出だけがアタマに残っている。

「お前がアメリカに行ったところで、コンビニのキャッシャーぐらいしか仕事は見つからない」

家族への結婚・米国移住の報告が終わり、次は会社へ告げる番だった。真っ先に上司に相談すると、「うーん。おめでたい話でいいんだけど、問題はクライアントだな。お前を外して誰を担当にするか? これは難題だな。揉めるかも」とアタマを抱え始めた。当時、すでにCliniqueを担当していて14年が経過していた。その間、私は何度も上司に担当を変えて欲しいと訴え続けたが、クライアントの猛反対でそれはまずできないと、ずっと拒まれていた。アカウントの責任者として、年間広告費30億円以上を扱っていた私は、クライアントの誰よりも、長く良くこのブランドを知る立場で、会社はエージェンシーとして、私だけは外せないという状況に追い込まれていた。

クライアントの部長の怒りとも嘆きともつかない反応に、エージェンシーとしてかなり厳しい交渉をしながら、会社は社内でも優秀と評価の高い私の同期を後任として決めた。彼への引継ぎを兼ねて、その後1年近く、私は彼と行動を共にすることになる。

当時、この件を耳にした周囲の反応は、以下の言葉に集約される。

「英語ができない大柴がアメリカに行ったところで、コンビニのキャッシャーぐらいしか仕事は見つからない。日本の広告業界で女性として稀有な成功を収めたキャリアを捨てるという判断は、完全に間違いだ」

米国移住後、私はこの指摘がすぐに間違いだと気付いた。米国のコンビニのキャッシャーを務めるには、英語がNativeレベルでないと、ローカルのお客さんとコミュニケーションが取れず、私のような外国人は難しい。さらに、米国では経験が重要視される。私はリテイルの経験はゼロで、私がいくらコンビニの仕事が欲しいとApplyしても、レズメにその職業経験がない以上、まず採用されないと思う。
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「どうやら、神様はどこかにいたようだ。やっと働く女性にも目を向け始めた」と涙した女性達

この頃最も嬉しかったコトは、私と仲が良かった女性の雑誌編集者やライター達が、私の結婚のニュースを聞いた時の反応だった。「何て素晴らしいことが起きたんだ!ひたすら働き続けた私達の仲間が結婚する!どうやら、神様はどこかにいたようだ。やっと働く女性にも目を向け始めた」と泣きながら祝福してくれた。38歳で結婚する私の姿は、彼女達の気持ちに灯をともし、その後半年ぐらいの間に、30代後半から40代の仲間達の何人かが、仕事を続けながら、結婚して行った。

彼女達は、言ってみれば日本の男性中心の企業社会の中で、会社に対して、硬軟織り交ぜて懐柔、或いはいやいやながら折り合いをつけて、キャリアを積み上げてきた戦士達である。当時非常に数少ないこの女性戦士達は、志を共有する同志として、心が強く結ばれていたことを思い出す。
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私は、その頃常に臨戦態勢で肩を怒らせて仕事をしていたらしく、周囲の男性から怖がれていた。37歳のシングルのWorking womanだった私は、「結婚できない女」としてレッテルを貼られ、「結婚している女性は安定していて仕事しやすいんだけど、シングルの女性はピリピリしてやりにくい」と言われたこともある。この言葉は私に限らず、他のキャリアの女性達にも投げつけられた言葉で、今ではとても考えられない職場環境だった。

​米国移住まであと1年

こうして1994年はあっという間に過ぎていくが、翌年は結婚式直前のオウム真理教地下鉄サリン事件とのニアミス、結婚式前夜の春の嵐、退社、さらにハネムーンでバラ色の気分で降り立ったSFOで不法滞在者として疑われてパスポートを取り上げられるなど、どこまで行っても、事件が起こる。
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その辺は、また次回のお楽しみとして、書き続けようと思う。
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ひさみの超私小説③:恐竜の化石より価値ある誕生日プレゼント

4/2/2021

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私の超個人的なお話③。前回の②では、英語の"If"が聞こえずにプロポーズされたと勘違いして、結婚のプラン作りをしてしまったことを書いた。今回は実際に結婚する前の幾つかのポイントとなるエピソードを書いておく。

「昭和天皇の戦争責任について、君はどう思ってる?」

1994年の夏、私はとても楽しく多忙だった。「シンカンセンひさみ」の異名をとった私は、毎週のように、土曜日の早朝、真っ赤なユーノスで、彼の赴任先の田舎町に向かった。

彼のお気に入りの地元の居酒屋「あかさたな」は、穴蔵のような薄暗い店内で、寡黙なマスターが1人で全てを賄っていた。港で陸揚げされたばかりの獲れたての魚と、マスターが指定した田んぼから作られる日本酒が美味しいお店だった。彼は良く1人でこのお店に通っており、マスターは彼が行くと、喜久水酒造で作られた出来立ての特別の新酒をふるまう、親しさだった。

​PS:残念ながら、その後、あかさたなは火事で消失し、マスターは癌で亡くなったと聞いている。以下は夫がマスターからもらった「あかさたな」の法被。
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或る日、彼はアメリカ人の同僚と私を伴って、「あかさたな」に向かった。日本酒が苦手な私は、最初はしんどいかな?と思っていたが、何故かマスターが選ぶ新酒は飲みやすく、美味しく感じられた。お通しが配られた後、突然「ひさみは、昭和天皇の戦争責任についてどう思ってる?」と、質問された。その日は彼の同僚もいたこともあり、私は当初から緊張気味で英語を喋ること自体がまごまごしていたが、席に着いた直後にこの質問に直撃された。

「えっ、ちょっと待って」と、普段ならば考える前に言葉が出てきてしまう私なのに、この時ばかりは珍しく、考える猶予をもらった。

私は「今までその件に関して、個人としてそんなに深く考えたことがなかった。まず文献などを読んで、私なりに考えをまとめて、改めて話します。」と答えた。私は内心「アメリカでは政治や宗教の話題は、食事の際に避けると思っていたのに。何で、こんな質問をするのだろう?」と思ったが、これは面白いトピックスだ、調べようと、即座に決心した。

当時、丁度『入江相政日記』の文庫版が発行されており、1969年から1985年まで昭和天皇の侍従長を務めた彼の日記は賛否両論を浴びながら話題となっていた。私は東京に戻り、すぐに昭和天皇の素顔を知るための資料として、日記を読み始めたことを思いだす。
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注:1994年当時は、携帯電話もインターネットも一般に普及していなかった。誰も検索などという言葉すら、アタマに浮かばない時代。資料は図書館、書籍、雑誌といった文献に頼るしかなかった。

会話のトピックスにタブーはない!彼との会話はとても刺激的だった

彼との会食で私がエンジョイしたのは、様々な話題を遠慮なく何でも話せる雰囲気だった。それ以前は日本人のボーイフレンドとの会話で、政治或いは社会的な課題に水を向けると、食事中だからそういうコトは話したくない、と避けられることが多かった。それと真逆な彼との関係は、何でも腹蔵なく話せて、開放感があり、実に心地よかった。今から思うと、英語が出来ない私が、なぜそんなに色んな話を、彼と話せたのかは大きな疑問であるが、彼は聞き上手で尚且つ「日本人の英語(発音やアクセント)」に慣れていたことが大きな助けとなった。

1週間後の週末、我々3人は、またしても「あかさたな」に集合した。私は満を持して「昭和天皇の戦争責任に関しての私見」を2人に披露した。私は、近代以前の歴史に関しては大好きで、かなりの書籍を読んでいたが、その時まで、大正・昭和の近代史にはあまり注意を払っていなかった。自分の中で、漠然と、日本は、軍部、軍閥、右翼の暴走によって、第2次世界大戦に突入し、昭和天皇は彼らに引きずり回されたと思い込んでいた。但し『入江相政日記』の読後、当時の天皇の意思や発言の重要性と影響力を分析すると、簡単に「戦争責任」は皆無だったと言い切れない、という考えに至った。

日本人同士だと、タブー視して、天皇に関する話題を議論することはまずないと思うが、2人のアメリカ人相手に、私はあくまでも私見として、自分の考えを述べた。今思うと、相当しどろもどろの英語の説明で、彼らがどこまで私の考えを理解したかは不明だが、2人は私の熱を帯びた話っぷりに惹かれ、さらに大いに感じ入ったようであった。

私はこの時、1つだけ、実にまずいと思える、ミスを犯した。何かの拍子に、米国のネイティブピープルの話となり、私は何の疑いもなく、その同僚も白人だという前提で(彼の容姿はどう見ても白人にしか見えなかった)話し始めた。決して差別的なことを言った記憶はないが、その会話の終わりごろ、同僚から、自分の祖母はネイティブピープルで、自分はクォーターだと告げられた。

​思い返すと、当時の自分は、簡単に表面的な容姿でその人を判断する危うさがあった。現在は複雑な人種が絡み合った米国社会で、常にDEI(Diversity, Equity and Inclusion)が念頭にあり、こういう発想は考えられない。

"Common sense is the collection of prejudices acquired by age eighteen(常識とは18歳までに身につけた偏見のコレクション)" Albert Einstein

今から26年前の日本は、今から思うと「常識という言葉を借りた、偏見だらけの時代」だった。私は1979年から1995年まで、日本の広告代理店で勤務していた。当時は、男女雇用機会均等法もなく、企業は、短大卒の女性(20歳)を「総合職(お茶くみ、雑巾がけ、コピー取り、新聞雑誌の切り抜き、宅配便替わりの書類の配達など)」と称して雇用し、2年間勤務した後は「寿退社(結婚による退職)」してくれることを期待していた(女性社員を早々に入れ替えて、平均年齢の若さを維持しようとしたのかもしれない)。

私は、4年制大学でマスディアとマスコミュニケーションを専攻し、尚且つゼミナールで『学生広告論文電通賞』に入選したことのある異端児だった。広告代理店に入社できた理由は、広告業界に影響力のあったゼミの教授が、強く私をエージェンシーに推薦したことが大きかった。入社決定時に会長から「大柴さん、役員会では、はっきり言ってあなたの入社に関して強い難色が示されました。お勉強とビジネスは違います、それをよく覚えておくように」と、大きな釘を、グサッと刺された。

初めてクライアントのコネクションなしで入社した私は、当時の女性の総合職の仕事を全て午前中で終わらせて、上司に「もっと仕事をください」と懇願する日々が続いた(当時はクライアントに頼まれて、その子弟を入社されることが多く、酷い名称だが人質と呼ばれる人達がかなりいた)。

幸いなことに、私の上司達は、女性社員としては異例の私の仕事へのやる気と能力を評価してくれたため、徐々に広告代理店らしい仕事を獲得した。入社後の1年目の1980年、Cliniqueのアカウントを獲得した私のチームは、クライアント(部長以外は全て女性だった)の要望で、女性としての実感レベルのナレッジが必要ということで、担当営業として私はチームに組み入れられた。

その後15年間は、アインシュタインのいうところの「常識という偏見のコレクション」の企業社会で、その全てを打ち破るがごとく、猛烈に働き、結果年間広告費30億円以上のアカウントの責任者となった。この間の話はいくらでも書けるが、この超私小説ではそれらを省いて、先を急ぐ。
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重くて今日は持ってこれなかったんだ、君への誕生日プレゼント

1994年11月25日の私の誕生日、彼は、"Rhythm Country and Blues"のCDを「はい、プレゼント、誕生日おめでとう」と言いながら、私に手渡した(後に、私はこのアルバムに関して、米国移住後初の英語のエッセイを書くこととなる)。
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彼は「もう1つあるんだけど、それは持ち運べないものなんだ」と言って、照れていた。「今、UC Berkelyの古生物学部が、T-Rexの化石展示の寄付を集めているんだ。ひさみは大の恐竜好きだから、君の名前で『T-Rexのあばら骨と歯の化石』の寄付をしたんだ。来年にはその展示館は完成して、君の名前は寄付者として一生UC Berkelyの博物館に残るよ」と言われた。
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私は、最初彼の言っている意味が分からず、英語がアタマの中を吹き抜けてしまったが、徐々にその意味を理解し、大いに驚き、尚且つ喜んだ。
まず真っ先に「日本にいながら、どうやって仕事とは関係ない、そんな大学の寄付のことを知ったの?」と聞いた。彼は「インターネットって知ってる?仕事上でインターネットにアクセスできるので、"Own a piece of the Rex"キャンペーンの情報を、たまたま目にして、プレゼントはこれしかない!と考えたんだ。」とさらっと言う。

私は当時コンピュータ(Windows 95は翌年登場する)を使ったこともなく、インターネットの概念すら皆無だったが、彼が恐竜の化石を買うのではなく、恐竜研究のために寄付をして尚且つ寄付者の名前が永遠に残るという行為をしたことに感動した。 
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PS:因みに、私は当時日本恐竜クラブの会員で、メンバー同士の会合にはよく出席しており、私達のハネムーンは、恐竜の化石で有名なUtah州のVernalがメインとなった。

​私達は、また翌年UC Berkelyの古生物学部主催のT-Rexの展示のオープニングに招かれた(彼も自分の名前で鉤爪と足の指の分を寄付していた)。そこで2人の名前が寄付者として刻まれているのを目にし、さらに私が、尊敬してやまなかった古生物学博士で恐竜研究の大家
Jack Hornerにも会えたことは大きな喜びだった。彼は映画『Jurassic Park(ジュラシック・パーク)』の全作品のテクニカルアドバイザーを務め、物語の主人公の博士は彼をモデルにしている。
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告白:彼への誕生日プレゼントは実にナイーブな当時の私らしいものだった

今だから告白するが、当時の私は非常にナイーブで、このプレゼントを貰う前、彼への誕生日プレゼントは、Bcarattのハート形のクリスタルだった。『私のハートをあなたに』というメッセージを込めたもので、当時の日本のバブルを引きずっていたのか、非常に物質的なブランドモノをあげてしまった。さらにもっと意味のないコトに、このハートはPaperweightぐらいにしか使えず、機能性とは程遠いモノだった。
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日本時代の私は、ある意味とってもロマンティックであったのかな?という、言い方もできるが、当時Bacarratのグラスは結婚祝いなどでよく贈られたブランドで、あの時代を象徴するものだった。

昭和天皇の戦争責任と恐竜の化石への寄付が、私にとって意味するコト

一見無関係に思えるこの2つのエピソードが、なぜ私にとってそんなに重要だったのか? 

1つは、私はどんな話題でも彼とは、恐れることもなく堂々と話せるという点、即ち、2人は人間として非常にフラットな関係であるということ。2つ目めは、恐竜という私が本当に関心のある事柄への理解が深く、それを寄付という『Purpose-drivenな行動』、言い換えると彼の価値観を見せてくれたこと。これらは、その後の私達の人生において、とても重要な部分となる。

子供の頃から、私は「結婚するなら、人間として心から尊敬できる人」と思っていた。男女といったGenderのみで物事をとらえるのではなく、生涯のパートナーとして、長い人生を歩むこととなるのが、結婚である。その場合、最も重視すべきコトは、その人の『人間性(Humanity)』だと信じていた。

幸運なコトに、私は彼の人間性を垣間見て、さらに2人が平等でフラットな関係であることを確信できた。これ以降26年に渡る私達の長い旅路は、山あり谷ありの厳しいものとなるが、まずは、2人はスタート地点に並んだ。
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    大柴ひさみ

    日米両国でビジネス・マーケティング活動を、マーケターとして、消費­者として実践してきた大柴ひさみが語る「リアルな米国ビジネス&マーケティングのInsight」

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