
父は、この後さらに、「日常使いの器が壊れることを恐れるならば、その器を使う・所有する資格がない。自分の身の丈にあったものを使う。それが大切」と言って、お客さんが来た時だけに使う高価なブランド物の食器を嫌がっていました。
今朝、夫は、私が日本から持参したみどりの小皿を床に落として、割ってしまいました。私は思わず父の口癖「カタチあるものは壊れる」と日本語で、叫んでしまいました。夫は、意味がわからず、「Sounds like serious(何だかシリアスな言葉だね)」と言うので、父の言葉を説明しました。
彼はいきなり、毎朝使っているお気に入りの備前焼きの湯のみ茶碗と急須を見ながら、「君のお父さんの言葉は、僕に一つのことをリマインドさせた。この大好きな備前は、いつかは壊れてしまうということ。そうすると、同じ作家(末石泰節)に注文しても同じものは手に入らないということだ。」
夫はさらに続けて「普段使うのは、別のにしたほうがいいかも。壊れても、惜しくないものにしよう」。父の言葉は、急に我が家の食器使いに大きな変化をもたらしました。
「カタチのあるものは必ず壊れるならば、カタチのないものは壊れないのか?」これが今朝の私の疑問です。「カタチのないもの」と考えて、真っ先に浮かんだのは、「愛情」です。確かに18年前に亡くなった父に対する愛情は、彼の生前も含めて、一度も壊れたことがありません。今は、夫に対してもしかりです。「カタチのないものは壊れない」のトップに、「愛情」を持ってくるのは多少危険ですが、壊れて欲しくないもののトップであることは確かです。