ひさみをめぐる冒険
  • BLOG
  • About
  • Contact

ひさみをめぐる冒険
サンフランシスコ・シリコンバレー在住マーケターのINSIGHT(洞察)



ひさみの超私小説⑦:「ひさみはどうして広告のプロフェッショナルとしての仕事を探さないの?」

5/26/2021

0 Comments

 
Picture
私の超個人的なお話⑦。前回の⑥では、長期違法滞在者と思われてパスポートを取り上げられたり、永住権取得の悪戦苦闘、初めて自分が有色人種だと認識したことなど、米国移住時のナイーブな私の驚きや戸惑いを語った。さて、今回はアナログ時代に、米国で何のつてもなく、英語も満足に喋れない私が、どんな就職活動をしたかを記していきたい。

人生初の無職の辛さの体験

26年前の私は、Permanent Resident(永住権、俗にいうグリーンカード)を申請中で、就労ヴィザもない状態で、当然米国で働くことはできない。22歳から38歳までひたすら働き続けてきた私は、この状態には面食らった。夫は、正式に米国本社に戻り、9時5時で通勤し始めた。彼を送り出した私は、なんと無職で専業主婦という、思いもよらない地位に陥ってしまった。勿論「English As A Second Language (ESL) 」に通学し始めるなど、米国社会に対応すべく行動していたが、それ以外の時間は、彼が帰宅するまで時間がひたすらあるという状態である。私は毎日「はてさて、今日はどうやって1日を過ごせばいいのか?」と考えていた。日課はプールでの水泳と、米国生活の驚きや観察記録(当時はブログという概念はなかった)を手書きで書き、さらに絵を描こうと思い立ち、様々なシーンを写生し始めた。

永住権取得がいつになるか読めない中で、私は、生まれて初めてじわじわ迫る、何とも言えない焦燥感を味わった。最も嫌だったことは、夫の給料のみを当てにする生活。自分で稼いでいた状況と異なり、自分の為だけにモノを購入することに罪悪感を覚え、精神的にかなり縛られていた。

蛇足になるが、日本時代を振り返ると、当時バブル期でもあり、給与やボーナスは年々上昇し、毎晩のように深夜以降の帰宅となる私は、人に言えないぐらいにタクシー代を使っていた(銀座や青山から実家の国分寺まで軽々1万円を超える)。周囲の女性社員が物凄い金額を貯金しているのを尻目に、私は「江戸っ子は宵越しの銭はもたねえ。金は天下の周りもの」といったAttitudeで、明日の稼ぎを当てにするという生活だった。

銀座には行きつけのブティックがあり、シーズンごとのカタログで洋服を注文し、毎月10万円ぐらいは洋服にお金を使っていたと思う(買い物の時間がなく、そのお店でまとめ買いをしていた)。或る日、ランチで食べたパスタのソースが白いパンツに飛んで、とてもこのままミーティングに出席できないという状況に陥った。私はブティックのマネージャーに電話すると、彼女は「大柴さんのサイズは全て手元にあるので、私が1時間以内に裾上げして、白いパンツの代替えをオフィスに持参します」と言ってくれるぐらいだった。

今でも思い出すが、国分寺の実家から自分の洋服をアメリカに発送する時、およそ100着ぐらいあるスーツを、私が梱包するように指示しているのを見て、夫は空いた口がふさがらないという表情だった。彼は「そんなに沢山の日本ぽいスーツをアメリカで着るの? 多分君は後で後悔するよ」とニヤニヤしながら予言した。私は「どれもこれも私のお気に入りで、米国では手に入らない」と強気の発言を返したが、彼が言った通り、かなりフォーマルで大げさな私のワードローブは、SFベイエリアのカルチャーにそぐわず、結果殆どを寄付した。 

母は渡米直前「あんたに貯金がないのは知っているけど、借金はないでしょうね?」と聞いてきた。私は「うん、退職金で綺麗にした」と答えると、母は「それで少しは残ったの?」、私は「うん、少し残った」と答える始末。当時の堅実な20代&30代の女性の生き方とは真逆で、破天荒な生活をしていた私が、いきなり米国でお金を稼げない専業主婦となり、この天と地の落差は激しかった。


初めて触れるコンピュータのOSは勿論英語だった

ESLに通いながら、英語を少しずつモノにしつつ、1996年6月、9か月かかって、やっとPermanent Residentの資格を獲得した。この間、観光ヴィザだったので、3か月に1度は日本に戻り、毎回SFOのCustomでまたしてもパスポートを取り上げられるのではという不安を抱きながら、日米間を往復していた。夫は、そんな私の気持ちを察して、毎回花束を抱えて、空港で出迎えてくれた。

一度、日本から戻るフライトが、SFO上空の濃霧で降りられず、そのままOaklandの空港に着陸した。私達乗客はバスでSFOまで輸送されると聞いていたが、霧が晴れたのでもう一度SFOに戻るということになり、ジェット機でSFベイを往復するという離れ業をやった(成田と羽田をジェット機で往復する感じ)。

当時携帯電話もない時代で、出迎えの夫は、情報が把握できず、SFOで何だかんだ4時間以上待つという状況。今思えば、全てがアナログで想定外の出来事が山ほどあったが、それ故に一たびお互いの姿を見ると感動があったような気がする。
Picture
私は、日本時代コンピュータを使ったことがなく、夫が自分のデスクトップコンピュータで、私に使い方を教えてくれた。コンピュータは、当然英語のOSで、私が日本語入力するのはずーっと先のコトとなる(初めて日本語をコンピュータの画面で見た時、その英語直訳の日本語の機械的な表現に怯えた)。夫はまずは扱いに慣れることが大切だとして、私にカードゲームのSolitaireの面白さを紹介した。私は夢中になって、毎日朝から晩までつかれたようにゲームを行い、夫が作ったエクセルシートにスコアを書き込む熱心さで、スコアでは夫を追い抜くほど、一気に上達した。

インターネットのない時代の就職活動

アナログ時代の就職活動は、今の時代の人が想像できない程、フィジカリーに自分の眼と足を使って、探すしか方法がなかった。まずは新聞や雑誌の求人広告が基本で、それ以外はCareer Action Centerといった、職を求める人達のための情報及びお互いを励ますようなセッションの場に行くという方法である。私は英語が出来ないというコンプレックスから、当初は日本語対応を必要とする職のみにフォーカスし、物凄い数のレズメを出して、散々悔しい思いを経験した。殆どは「Over qualification(職種の資格以上の職歴)」という理由で、婉曲な表現ながらもはっきりと断られた。

子供の頃から勝負事で負けるという経験をほとんどせず、常に勝ち続けてきた私にとって、この負け続けとも言うべきJob seekingの期間は、本当にしんどかった。但しこれによって、私の鼻っ柱は完璧に折れて、米国生活の現実を受け入れる準備が整った。3か月がたった1996年9月、日本人顧客をメインとするカタログメールオーダーの会社からカスタマーサービスの面接の知らせが来た。いつものように社長は「Over qualificationのように思えるが、何故CSに応募したのか?」と聞かれて、私は「今までやったことがないダイレクトマーケティングを学びたい。そのためには、まずは顧客と直接コミュニケーション可能なCSの職種から始めることが重要だ、と思ったから」と答えた。社長は、私の真摯な態度に好印象を受けたらしく、CSとして採用されることとなった。

お洒落なジュエリを主体とした衣服や小物のカタログを日本に郵送し、顧客はそれを見て添付のオーダー用紙に書き込んで、米国に返送する。私達CSは、その返送されたオーダーを入力し、それが終わると、日本から電話をかけてオーダーする顧客、及び苦情を述べる顧客対応というのが仕事であった。CSの勤務時間は、時差のある日本時間に合わせて、午後14時から22時までと、22時から朝の6時までの2回の勤務シフトがあり、私は、週に2-3回は夜間シフトを務めた。夕食の後、星空を眺めながらオフィスのあるPalo Altoに向い、夜明け頃にRedwood Shoresの自宅に戻るという夜間シフト。道すがら、渋滞のない(当然誰も走っていない)101や280のフリーウエイを運転しつつ、米国で暮らすことの厳しさを実感した。
​

CSとして働きながら学んだコト

ここで学んだことの1つは、周囲のCSとして働く同僚達の境遇の厳しさである。男性は1人しかおらず、日本人女性がCSのメインで、ある女性はアメリカ人の夫が大学に通っており、学資援助と生活を支えるために仕事の掛け持ちをしていた。別な女性は、夫もアメリカ人ではないため(韓国人)、まず自分が永住権獲得を有利に運ぶために陸軍に入隊して永住権を獲得し、現在は除隊して生活を支えるためにやはり掛け持ちで働いていた。私は今でも、彼女が「F wordを使って喧嘩するなら、誰にも負けない。全て軍隊で覚えた」という言葉を思い出す。

私は、当時米国でやっとCSとして職が得られたことを喜び、日本の家族や友人にも知らせた。非常に驚いたことは、クライアントがこの件を知って、憤っているという話を耳にした時である。「あの大柴さんが、何でCSとして夜中に電話で顧客の苦情を受けているのか? 大企業勤務の旦那は何をしているの!」というのが、広告部長の怒りの理由である。雑誌広告業界でClinique担当として、年間30億円以上の広告予算を握り、業界内で「T-Rex」と言われて恐竜のように恐れられ、君臨していた大柴ひさみが、メールオーダーカタログのCSとして夜間シフトで働いている。確かに日本から見ると、彼我の差がある境遇に落ちぶれたと思えたのかもしれない。

私は既に米国で様々な壁に何度もアタマをぶつけており、とっくに看板で商売するという日本式のやり方を捨てており(日本の看板は米国では何も役に立たない)、そんな日本の見方など気にもならず、真剣にCSとしての仕事に取り組んだ。特に怒り狂っている顧客への対応の仕方(どんな理不尽なクレームであっても、まずはひたすら相手の言い分を真剣に傾聴する、これが最も重要なこと)や、米国顧客向けに雇用されていたアフリカ系アメリカ人との交流(最初は非常に冷ややかだったけど、徐々に打解けてくれた)など、米国社会で暮らす『101(初心者向けの入門編という意味の英語)』とも言うべき現実を学んだ。その後、社長は改めて私の経歴を見なおして、より日本人顧客を引き付けるための日本語カタログへのアドバイスを求めるようになり、徐々にCSとしての勤務が減って行った。但し、この流れは、逆にCS仲間との溝と嫉妬を生み、私の周囲には気まずさが漂うこととなる。

「ひさみはどうして広告のプロフェッショナルとしての仕事を探さないの?」

こうした勤務の間にも、私は日々様々な就職機会はないかと、新聞広告や前述したCareer Action Centerの求人募集のバインダーを繰っていた。或る日、センターでJob Seeker向けのセッションがあるという告示を目にして、参加した。確か15人ぐらいだったと思うが、冒頭、自己紹介とどんな仕事を探しているかを説明し、その後はレズメはこう書くべきとか、面接での受け答えのコツ、給料の交渉はこのようにすべきといった、各自の経験に基づく情報交換が行われた。参加者は、現在は雇用されているけど次の職を探している人、解雇されたばかりの人、子育てに区切りがついた女性、退職後の次のキャリアを探す人など、立場、性別・年齢、職種は様々だった。

そのセッションの参加者は全てごく普通のアメリカ人で、彼らは唯一の外国人参加者の私を歓迎してくれた。私の自己紹介を終わると、彼らは口々に、男性中心社会として世界中に知れ渡っている日本で、女性の私が築き上げた実績とキャリアを称賛してくれた。その中の1人が「ひさみ、何でそんなに日本語という語学を条件にする職種にこだわるの? 君は16年間も日本の広告業界で素晴らしい活躍をしてたじゃないか!日本語のことなんか横において、SFベイエリアの広告業界の人材募集に応募すればいい。君のマーケティングや広告のナレッジやスキルというコンテンツに、お金を払う企業は絶対にある。君は自分のもつStrengthにフォーカスすべきで、英語というWeaknessなんかうっちゃっておけばいい」と、私に訴えた。それを聞いて、周囲の参加者も一様に「そうだ、その通り! ひさみ、職探しの戦略を変えなさい」とアドバイスし始めた。 
​
これを聞いて、月並みな言い方だが、私はあたかも雷に打たれたような啓示を受けた。「アメリカ人の考え方は、これなんだ!Strengthこそが最も大切でそこにフォーカスする。Weaknessなんて、いくら努力して、克服しようとしても時間がかかるだけで結果は薄い。よし、私もこの考えを取り入れる。Yes we can!」と決意を新たにした。

私のとって生涯唯一の推薦状には、「彼女は"Fast learner"である」と記されていた

このCareer Action Centerのセッションが契機となり、私はAd AgeやAd Weekなどの印刷媒体の求人募集にくまなく目を走らせ、Media buyer、Planner、Account Superviser、Production managerなど、日本語に関係なく、様々な職種にレズメを送った。毎回、"Unfortunately, ..."で始まる断りのレターを何通も受け取ったが、私はへこたれずにレズメを送り続けた。或る日、McCann Erickson San Franciscoからレターが届いた。私は今回もどうせダメだろうと思って、封を切ったが、Job interviewをしたいという、思いもかけない言葉が目に飛び込んできた。
​
多分、これは、私の生涯で唯一の仕事に関する推薦状だと思うが、未だに手元に残してある。当時の電通Y&RのExecutive Vice President(イギリス人)が、1996年8月に書いてくれたもので、この推薦状の有難さは言葉では言えない。

To whom it May Concern:

As you will see, from here resume. Mrs. XXXX(私の英語の本名)was loyal and deliciated member of this agency. She was an integral part of the team which successfully handled one of our largest, and certainly one of our most demanding, clients.

Clinique became an outstanding success in the Japanese market and Mrs. XXXX both helped the client grow and, in turn, grew and matured herself.

Extremely hard working, as she is, the client became rely on her; she totally identified with the product. Aggressive in style, and her job, she became extremely knowledgeable of the Japanese "media scene", and of the magazine filed in particular. 
​
This is an individual on whom one can rely and trust to do a thorough and professional job; within her field of knowledge. But her character and drive also make her a "fast learner".

「あの大柴さんがSF ベイエリアにいるの?」

確かMedia buyerの職種で、McCann Erickson SFにはレズメを出したが、結果として、彼らは、私をDFS(Duty Free Shppers)のAccount Superviserとして雇用したいというオファーだった。SFにオフィスのあったDFSは、日本人観光客からのレベニューが大きなシェアを占めており、当時日本の雑誌広告にかなりの金額を使って広告出稿していた。当時のMcCann Erickson SFのDFSの担当者(日本人)は、12月末に退社して或るグローバルブランドのディレクターに就任する予定で、彼らは後任を探していた。彼は、日本時代に外資系化粧品を担当しており、「あのClinique担当大柴さんがベイエリアにいるの? これはもう、彼女しか僕の後任はいない」と主張して、私はDFS担当として、面接に招かれた。

直接のボスとなる部長は、いきなり「君がCliniqueの莫大な広告予算を使って日本の広告業界で成功したことはわかった。現在DFSの広告予算はこれだけしかない。これでどれだけ日本の雑誌広告で良い掲載面がとれて、良い広告効果を期待できるか?」と、剛速球の問いを投げてきた。私は今までの面接と異なり、まさに私の築き上げたキャリアにおける問いかけで、何の躊躇もなく私の戦略を話し始めた。今でも思うが、英語が出来ないというコンプレックスはどっかに吹っ飛び、いつの間にか、日本語を駆使して話す、かつての大柴ひさみに戻って、英語で語り始めたような気がする。

面接が終わった後、ボスは、早速前任者を呼んで、3人でちょっと一杯しようと、まだ採用の可否も雇用条件も、何も決まっていないのに、そのまま歩いて、フェリービルディングのそばの老舗のレストランOne Market Restaurantに、私達を連れて行った。その後正式に採用が決まり、前任者との引継ぎは、確か12月31日、彼はがばっと書類の束を私の机の上に置いて、「何かあれば連絡ください。僕はこれからヨーロッパに出かけます」と告げられ、唖然とする私を尻目に去って行った。何も状況を把握できず、書類の束を目にして、私は「何とかなるさ」と、自分に言い聞かせて、眼を通し始めた。
​

待ち受ける日米冷戦のリエゾンとしての苦悩

雑誌出稿は全て日本のMcCannにゆだねられており、SFと日本のグループ会社の関係はかなり悪化していた。私は、嵐に向って漕ぎ出すセールボートに乗り込んだとは夢に思わず、舵を取ることに夢中になった。後で思いかえすと、これほどアタマを壁に何回もぶつけられるとは露ほど思わず、ナイーブな私は「来年(1997年)は、米国おけるキャリア構築元年だ!」と、意気込んだ。

さて次回以降は、プリマドンナ(自分が主役だと常に主張する人達)だらけの米国の広告代理店の権謀術数に巻き込まれ「ひさみの寺内貫太郎、卓袱台返し」をしたコトとか、「もうこれ以上我慢できない、日本に帰る」と言った夫の叫びとか、引き続き「ひさみをめぐる冒険」が続く。乞うご期待。
0 Comments

ひさみの超私小説⑤:私の日本での最後のキャンペーンは"Beauty Isn't About Looking Young(美しさは年齢と無関係です)"

4/18/2021

0 Comments

 
Picture
私の超個人的なお話⑤。前回の④では、父の死や母に結婚を告げたエピソード、米国移住を決意した結果起きた周囲の声「英語のできないお前は米国ではコンビニのキャッシャーぐらいしか務まらない」など、日本の当時の男性中心の企業社会をまとめた。今回は日本のエージェンシー時代のエピソード、結婚式、ハネムーンで降り立ったSFの空港で不法長期滞在と疑われたことなど、盛りだくさんな出来事を記す。
「女主人公の銃の撃ち方がリアルなので」と答えて、Cliniqueの担当営業となった私​

1980年、社会人2年目の私はニッカウヰスキー担当チームに配属されていた。チームは、この年外資系化粧品ブランドのCliniqueのアカウントを獲得した。クライアントは部長を除いて、課長以下、担当者は全て女性だった。課長が、真っ先に「化粧品のブランドを扱うチームに、何故女性の担当者がいないのか?」と、鋭く指摘してきた。

今でも覚えているが、応接室にお茶を出していた私を捉まえて、課長は「大柴さんはどんな映画が好き?」といきなり質問してきた。私は、何のためらいもなく丁度見たばかりで物凄く気に入っていた映画『Gloria』を挙げた。

​課長に「何故その映画が好きなの?」と聞かれ、「マフィアの秘密を売ろうとして惨殺された一家の男の子を助けて、NY中を逃げ回る主人公のGloriaの銃の撃ち方が物凄くリアルだったこと。さらに子供嫌いのGloriaが、徐々に母性本能が芽生えて、子供を必死に守ろうとする演技が非常に良かったから」と答えた。
Picture
『Gloria (1980) 』 監督John Cassavetes 主演女優Gena Rowlands

課長と担当者たちは、私の答えにニヤリと笑って、「大柴さんに是非うちの担当になってもらいたい。チームに女性は必要です」と、ニッカウヰスキー担当の部長に告げた。

後にこの指名の理由をクライアントに聞いたが、
彼女は「あなたの視点は他の人と全然違う。そのユニークな発想こそ、当時のCliniqueが他の化粧品ブランドと差別化するのに必要だと直感したから」と説明された。

​
勿論、クライアントは、私の大学の専攻が「マスコミュニケーションと広告」だったことを知っており、さらに当時のエージェンシーの女性社員の役割も十分理解した上で、あえて私を指名してきたと思う。

「皮膚医学に基づいたシンプルなスキンケアシステム」という新しい概念をWorking Womenは歓迎した​

Cliniqueは、1967年8月Vogueの編集者Carol Phillipsが、皮膚医学者にインタビューした記事“Can Great Skin Be Created”をきっかけに誕生した。そのコンセプトは、当時の化粧品とは全く異なる考えで「肌には自らのチカラで良くなる能力がある。それを引き出すために、皮膚医学に基づいたシンプルな3ステップを、朝晩2回歯を磨くように 実施すればいい。無香料、アレルギーテスト済み」というものだった。
Picture
当時米国のスキンケアは、富裕層の女性達がElthabeth ArdenのRed Doorに代表される美容サロンで受ける高価なもので、一般の女性達には縁遠く、CliniqueのコンセプトはWorking Womenに大きな反響を呼んだ。彼らのマーケティング活動は、アメリカを代表するファッション写真家のIrving Pennが撮影した大胆な製品写真とウィットのきいたコピーで、一切モデルを使わなかった。

1970年代後半日本市場に参入したCliniqueは、皮膚医学に基づいたシンプルンなスキンケアの3ステップ、SPF(Sun Protection Factor)という数値を基に紫外線の悪影響から肌を守るという、科学的なスキンケアの概念をもたらした。当時、日本の化粧品業界は、王者資生堂にカネボウが故夏目雅子の水着姿の「クッキーフェイス」キャンペーンで挑戦して、注目を集めていた時代。​Cliniqueは革新的でアンチテーゼともいうべきコンセプトで市場参入を果たした。

私は大学時代から、女友達が肌のトラブルで悩んでいたが、Cliniqueを使いだして、肌が良くなっていったという事実を目にしており、自分が信じられるブランドの担当になれたと思い、有頂天となった。
"Beauty Isn't About Looking Young(美しさは年齢と無関係です)"

1980年のCliniqueの年間広告支出額は2億7,000万円で、15年を経て1995年私が退社する頃は30億円以上となっていた。当時は4大マスメディア(TV・新聞・雑誌・ラジオ)を中心とした広告展開がメインで(携帯電話もインターネットもソーシャルメディアもない時代)、雑誌広告主体の化粧品業界は、雑誌広告の表2を獲得するために、莫大な札束合戦を繰り広げていた。

​Cliniqueはこの15年間で、Estee Lauderグループの豊富な資金力と製品開発力を活かし、デパートの売り場面積の拡大(=売上の拡大)に比例するかのように広告費を増やし、外資系化粧品ブランドではNo 1の地位を確立した。この15年間のマーケティング戦略や活動の詳細を書こうと思えば幾らでも書けるが、先がまだまだ長い私の超私小説では、詳細には触れないでおく。

そんな中で1つだけ言及したいことがある。私が最後に手掛けたキャンペーンで、これは、まさにClinique及びその後の私の生き方をそのまま表現したようなコンセプトだった。

"Beauty Isn't About Looking Young(美しさは年齢と無関係です)"というタグラインを掲げて、「若く見える」ことが、女性の美しさにとって最も重要だという、当時の日本社会の常識に対して、強いメッセージを投げかけた。
Picture
「女性は各々の年齢にあったその人なりの美しさがあり、年齢とは単なる数字でしかない。Cliniqueはその人のもつ肌の自助作用を引き出して、その人にとって最良の肌を作り出す」といったアプローチで、様々な年齢の女性達を広告に登場させた。

​
今でいうところの女性のSelf esteem或いはEmpowermentを促すためのキャンペーンで、これを30年近く前に企画実施したCliniqueの先見性は鋭い。米国本社でCliniqueが展開していたこのキャンペーンを、日本でも実施できたことは、私の日本での最後の仕事として、感慨深いものがある。

1995年は阪神・淡路大震災、地下鉄サリン事件と連続して大事件が起こる激動の年となった

1995年1月17日、マグニチュード7.3、被害者6,434人を出した阪神・淡路大震災が起きた。その後の2011年3月11日の東日本大震災を経験する前まで、この震災の凄まじさは多くの人達を震撼させた。そんな激震で始まった1995年、私は結婚式は桜の樹の下で挙げたいと決めており、青山にあったデヴィ夫人の元の邸宅が借りられることを発見して、4月8日のお釈迦様の誕生日に予約した。桜の樹が至る所に植えてあり、ゴルフのパッティングができる広い庭、建物内部には螺旋状の階段があるといった、ドラマティックな洋館だった。

当時平日は国分寺の実家で過ごし、金曜日は仕事を終えるとそのまま列車で夫となる彼の赴任地に赴き、週末を一緒に過ごして、月曜日の始発に乗って会社に出社していた。1995年3月20日の月曜日、いつものように赴任地の始発の列車に乗り、地下鉄の銀座線に乗り換えて、京橋へ向かおうとした。通常は混雑する車内に乗客は殆どおらず、何か異変があったとは思ったが、当時携帯電話もインターネットもない時代で、地下鉄車内では情報の取りようがなかった。

この日は午前8時頃ラッシュ時の混雑を狙って、オウム真理教の麻原教主の指示によって、神経ガスのサリンが散布されて、乗客・駅員14名が亡くなり、負傷者は6,300名にものぼる大事件が起きていた。私が京橋駅に着いた時間は午前9時過ぎで、危機一髪ともいうべきタイミングで、サリン散布の遭遇を免れた。会社に着いて事件の概要を知り、その恐ろしさに身震いしたことを思い出す。
​

春の嵐を経て、4月8日は満開の桜が咲いた

私は西行法師の「願わくは 花のもとにて 春死なむ その如月の望月の頃」の歌が好きで、子供の時から、結婚式という死と無縁であるイベントを、桜の樹の下で挙げるイメージが、アタマにこびりついていた。

私達の結婚式は、一切プロの手を借りずに、私自身が全て計画し、「製作・脚本・監督・主演」という4役を実行した。式の会場や招待客の選択、招待状のデザイン・印刷、料理・引き出物・花々の手配、式のタイムスケジュールなど、全て私が指示・交渉した。式の前日は春の嵐となり、周囲から庭園にテントを用意したほうがいいと忠告されたが、私は頑固にそれを固持し、「私は晴れ女!明日は絶対晴天になる」と突っぱねた。翌日は、輝く青空の下で、見事な日本晴れとなり、桜は満開に咲き誇った。

既にメイクアップも終えてウエディングドレスを着ている私のところに、「大柴さん、講談社と集英社の社長から祝電が来ています、どっちを先に読み上げますか?」とか、「洋館内の音響の具合が悪いので、音楽を流すのは厳しいかもしれませんが、どうしますか?」などと言った声が、ぎりぎりまで聞こえてきた。仕舞には、私の介添え役として動いていた女友達は、「彼女を花嫁にしてやってください。ここから出て行ってください」と、叫ぶ始末であった。

最後の10分間の静寂の中、やっと花嫁の気持ちになれた私は、弟の腕にすがって、庭園に敷き詰められた白いヴァージンロードに向って歩きだした。その後は、まさに私らしくもなく、生涯に1度だけ女性が、プリンセスのような気分になって舞い上がる姿そのままで、無事に結婚式を終えた。
​

違法長期滞在の疑いで、SFの空港で別室に連れて行かれた私

日本での新婚旅行は蔵王で、ゴンドラに乗って山頂に建てられた「スターライトホテル」というロマンティックな名前の宿に泊まり、4月9日という季節外れで誰もいないゲレンデで、スキーを楽しんだ。

7月末の正式な退社までにやるべきことは意外と多く、正式な結婚届を提出し、夫のLast nameをカタカナ読みした新たな戸籍を作成し、私は戸主となり、夫は戸籍の欄外にカタカナでFirst nameが表記された。パスポートも大柴姓から、カタカナ姓に変更した。夫の来年以降の勤務地が未定でもあり、その確認と米国でのハネムーンを兼ねて、8月夫の会社の本社のあるSFベイエリアに向った。3か月は観光ヴィザでいられることが念頭にあり、帰りの日付がオープンのままのチケットを持ったまま、SFOに降り立った。

税関で、夫は市民、私は訪問者の窓口で分かれて、通関しようとしたが、検査官は私のパスポートを見て不審な顔をしながら、帰りのチケットを見せろと言ってきた。私はいつ日本に戻るかをまだ決めていないので、帰りのチケットの日付はオープンで、それは夫が持っている、その件は彼が説明すると答えた。検査官は、いきなりトランシーバーで係官を呼んで、私を別室に連れていけと指示した。すでに通関していた夫が、不穏な空気を察知して、駆け付けて、結果2人で係官の後に従って、別室に入った。

係官は、私が既にLast nameを変えたパスポートを持ちながら、帰りのチケットの日付がオープンなのは、このまま米国に違法で長期滞在することを計画していると、詰問してきた。夫がいくら事情を説明しても納得しない係官は、パスポートを取り上げて、弁護士と一緒に指定する期日に再度来て、質問に答えるとようにと、言い放った。

夫は「アメリカ人と結婚しても、日本で結婚届を出さずに日本名のままのパスポートを保持し、日米を悠々と行き来している多くの不法な人がいる。そんな中で、正式な手続きを経た人間をこのように扱う。なんなんだこの不合理は!」と激怒した。

私の米国でのハネムーンは、こうした手ひどい歓迎を受け、惨憺たるスタートで始まった。
​
次回以降は、その後の26年間の米国における私の山あり谷ありの飛んでもない人生を語ることにする。


0 Comments

ひさみの超私小説④:「英語のできないお前は米国ではコンビニのキャッシャーぐらいしか務まらない」と言われた

4/10/2021

0 Comments

 
Picture
私の超個人的なお話④。前回の③では、昭和天皇の戦争責任と恐竜の化石の寄付という2つのエピソードで、夫となる男性の「人間性(Humanity)」を確信し、結婚を決意したことを書いた。今回は結婚を家族や会社に告げたことによって起きた出来事を記す。
​
私の独立は父の病気で急遽取りやめとなる

私の父は1989年64歳で肝臓癌で亡くなった。母は当時まだ54歳という年齢で「未亡人」という立場になってしまった。但し、幸運なことに母は当時働いており、父を失った後も仕事を続けることによって、心の傷痕を癒すことが可能だった。父が亡くなる1年以上前、私は実家から出てアパートメントを借りることを決意した。当時最もお洒落だった雑誌『カサ・ブルータス(Casa BRUTUS)』で、羽根木公園近くのロフト付きのアパートメントを見つけ、早速両親と一緒に、アパートメントを内覧した。玄関から中に入るとまずDKで、1-2段のステップを上がると、リヴィングルームへと続く。またそこには梯子がかかって、それをよじ登るとロフトのベッドルームとなる。そのロフトの窓から這い出るように外に出ると、屋上にでるという、非常にユニークな作りだった。

母は開口一番「これは酔っぱらって帰ってきたひさみが、この梯子で落ちる可能性があり、危ない」と警告を発した。父は「ひさみの好きなようなさせてやればいい。俺はたまにここに遊びに来て、近所の羽根木公園でやっている野球を見るよ」といって、ニコニコ笑っていた。その後、3人で少年野球を見た後、梅が丘の駅前の有名な「美登利寿司」でお鮨をつまんで帰った。私はこの最新のお洒落なアパートメントでの生活を思い浮かべて、ワクワクしたことを思い出す。

内覧直後だったと思う、父の検査で訪れた、聖マリアンナ医科大学の医師が、母と私だけを別室に呼んだ。当時、患者に直接病状告知をするケースは稀で、医師は申し訳なそうに、父の命はあと1年しかもたないと言った。真っ青な顔で戻った母と私に、父は「どうだった?」と尋ね、私は即座に「治療に時間がかかるみたい。入院する必要があるの、お父さん」と答えた。父は、その時、ちょっと悲しげで乾いた微笑を浮かべて「そう、了解」と答えた。

或る日、父の見舞いに来た私は、病室のベッドが綺麗に整頓されて、父が見当たらず、頭が真っ白になった。父は戻ってきて「ベッドにいなくて驚いた? ごめんね」と照れ臭そうに謝った。父は自分の命の限りを既に察知していたが、私たち家族には「知らないフリ」をしていたと思う。1989年1月7日昭和天皇が崩御した頃、自宅に戻った父の病状は徐々に悪化し、2月24日の大喪の令の日、父は吐血して、そのままICUに運ばれた。私たち家族は、ICUの待合室で大喪の礼を見て、その後5月6日に亡くなるまでの2か月半、母と弟と3人で、24時間3交代で病院に寝泊まりして、父の最期を看取った。

医師は意識不明になっていた父は、痛みを感じないからといって、モルヒネを打ってくれなかったが、父の苦しんだ動物のようなうめき声を聞いて、看護婦さんに頼んで、何度か打ってもらった。父の解剖結果を見た医師は、「大柴さんは身体中に癌が転移していて、普通ならばとっくに亡くなっている状態だった。心臓が強靭だったために、簡単に死ねずに随分苦しまれたようです。痛みを感じないなどと言って、申し訳ありませんでした」と謝った。
​
父の最期の言葉「ひさみ、次はアメ車を買いなさい。大きくて馬力があって頑丈でいい」

父との最後の会話がとても印象的だった。「ひさみ、車を持ってきて。家に帰りたいんだ。車はアメ車がいいなあ」。「あれ、お父さんはアメ車はあんまり好きじゃなかったじゃない?」「いや、アメ車がいい。大きくて馬力があって頑丈だから。ひさみ、次はアメ車を買いなさい」。この言葉がアタマを離れず、父の葬儀で遺体を火葬場まで運ぶ車は、キャデラックを選んだ。

私は父の死後6年経って、アメリカ人(彼は189㎝と背が高い)と結婚することになるが、ふとこの父の最期の言葉を思い出し、「お父さんは知っていたんだ、私がアメリカ人を選ぶことを」と確信した。

結婚式の当日、父の弟たち(私の叔父達)は、「ひさみの旦那は、アメリカ人なんだけど、みっちゃん(父の呼び名)にそっくりだね。みっちゃんはひさみを目の中に入れても痛くない程可愛がっていたし、ひさみはやっぱみっちゃんみたいな人を選んだね」と口々に話していた。

父は1925年(大正14年)1月1日に生まれて、昭和が終わった1989年5月6日に64歳で亡くなった。父の人生は、激動の昭和の64年間そのままだった。病状が悪化する父に「お父さん、平成っていうのが新しい年号だよ」と告げると、父は「平成?そんなの、俺は知らねえや」と呟いていた。
​
PS:夫は19歳で学生結婚をしており、彼の前妻の父親も1月1日生まれだった。夫は良く「僕は1月1日生まれの父親を持つ女性としか結婚できないらしい」と冗談を言う。
母の気持ちと片道切符代わりの指輪

結婚に関しての気持ちが固まった私は、この件をどのように母に話そうかと思い悩んだ。

当時、彼は「まだ暫くは日本勤務が続くと思うけど、2-3年後には米国のSFべイエリアに戻る。そうなったらどうする?」と、聞いてきた。彼は、これまで1つの業界一筋でキャリアを積み上げてきた人で、当時世界有数の大企業に勤務していた。身体の大きい彼は、夏でもサングラスをかけず(自分がサングラスをかけると日本の人に威圧感を与えるから)、電車に乗る時もなるべく身体を小さくするといった気配りを見せる人だった。私は、彼が今の会社を辞めて、日本でどんな職業があるんだろう? とても駅前留学Novaの英会話教師として暮らす姿は、想像できなかった。

「私は今の会社を退社して、あなたと米国に行きます」と告げると、「女性広告営業のパイオニアとして成功を収めたキャリアを、本当に捨てられる?」と、念を押された。米国移住後、仕事に関しては、度々厳しい鉄槌を下される私だが、16年間で築き上げた日本でのキャリアへの自負が強く、当時その甘さに一切気が付かなかった。

まずは、弟に結婚のことを相談した。「今アメリカ人と付き合っていて、結婚を考えているの。つまり米国に移住することになるんだけど、お母さんを残して行く気にはなれない。」。「姉貴は本当にその人に惚れてるだろう? だったら、米国に行った方がいい。俺がお母さんの面倒は見るから、心配しなくていい。」と弟に背中を押された。「あんたが、そう言ってくれるんだったら、決心できる。お母さんのことだけが心配だったの。ごめんね、こんな大きなコトをあんたに背負わせるようになってしまって」。弟は「大丈夫」とニッコリ笑った。

母の表情の変化が、全てを物語っていた。彼女はアタマと心の中で、私がアメリカ人と結婚することによって、今後の自分の人生にどんなことが起こるかという事実を、必死に咀嚼しているようだった。但し、私が経緯を話し終えると、彼女は「分かった。とうとう結婚を決意したのね、良かった。お母さんはとっても嬉しい。私のことは何も心配しないで、好きな人と一緒にアメリカに行きなさい」と、きっぱりと告げられた。

母は、私の結婚祝いに指輪をあげると言いはり、2人で銀座の宝飾店に出かけた。正確には覚えていないが、当時の金額で30万円ぐらいかかって、綺麗な青碧色の石と18金のイタリア製のバンドを組み合わせて、指輪を作ってもらった。母は真顔で指輪を渡す時「ひさみ、アメリカでどうしてもこれ以上いられないと思ったら、この指輪を売って、飛行機の片道チケットを買って帰ってきなさい。我慢しなくていいんだから」と、私に言い含めるように言った。米国移住をする娘の将来への不安は隠しきれず、もしものことを考えた母の気持ちだった。

非常に悲しいことに、その指輪は、後年自宅のクリーニングサービスをする女性に盗まれてしまい、今は母の指輪の思い出だけがアタマに残っている。

「お前がアメリカに行ったところで、コンビニのキャッシャーぐらいしか仕事は見つからない」

家族への結婚・米国移住の報告が終わり、次は会社へ告げる番だった。真っ先に上司に相談すると、「うーん。おめでたい話でいいんだけど、問題はクライアントだな。お前を外して誰を担当にするか? これは難題だな。揉めるかも」とアタマを抱え始めた。当時、すでにCliniqueを担当していて14年が経過していた。その間、私は何度も上司に担当を変えて欲しいと訴え続けたが、クライアントの猛反対でそれはまずできないと、ずっと拒まれていた。アカウントの責任者として、年間広告費30億円以上を扱っていた私は、クライアントの誰よりも、長く良くこのブランドを知る立場で、会社はエージェンシーとして、私だけは外せないという状況に追い込まれていた。

クライアントの部長の怒りとも嘆きともつかない反応に、エージェンシーとしてかなり厳しい交渉をしながら、会社は社内でも優秀と評価の高い私の同期を後任として決めた。彼への引継ぎを兼ねて、その後1年近く、私は彼と行動を共にすることになる。

当時、この件を耳にした周囲の反応は、以下の言葉に集約される。

「英語ができない大柴がアメリカに行ったところで、コンビニのキャッシャーぐらいしか仕事は見つからない。日本の広告業界で女性として稀有な成功を収めたキャリアを捨てるという判断は、完全に間違いだ」

米国移住後、私はこの指摘がすぐに間違いだと気付いた。米国のコンビニのキャッシャーを務めるには、英語がNativeレベルでないと、ローカルのお客さんとコミュニケーションが取れず、私のような外国人は難しい。さらに、米国では経験が重要視される。私はリテイルの経験はゼロで、私がいくらコンビニの仕事が欲しいとApplyしても、レズメにその職業経験がない以上、まず採用されないと思う。
​
「どうやら、神様はどこかにいたようだ。やっと働く女性にも目を向け始めた」と涙した女性達

この頃最も嬉しかったコトは、私と仲が良かった女性の雑誌編集者やライター達が、私の結婚のニュースを聞いた時の反応だった。「何て素晴らしいことが起きたんだ!ひたすら働き続けた私達の仲間が結婚する!どうやら、神様はどこかにいたようだ。やっと働く女性にも目を向け始めた」と泣きながら祝福してくれた。38歳で結婚する私の姿は、彼女達の気持ちに灯をともし、その後半年ぐらいの間に、30代後半から40代の仲間達の何人かが、仕事を続けながら、結婚して行った。

彼女達は、言ってみれば日本の男性中心の企業社会の中で、会社に対して、硬軟織り交ぜて懐柔、或いはいやいやながら折り合いをつけて、キャリアを積み上げてきた戦士達である。当時非常に数少ないこの女性戦士達は、志を共有する同志として、心が強く結ばれていたことを思い出す。
​
私は、その頃常に臨戦態勢で肩を怒らせて仕事をしていたらしく、周囲の男性から怖がれていた。37歳のシングルのWorking womanだった私は、「結婚できない女」としてレッテルを貼られ、「結婚している女性は安定していて仕事しやすいんだけど、シングルの女性はピリピリしてやりにくい」と言われたこともある。この言葉は私に限らず、他のキャリアの女性達にも投げつけられた言葉で、今ではとても考えられない職場環境だった。

​米国移住まであと1年

こうして1994年はあっという間に過ぎていくが、翌年は結婚式直前のオウム真理教地下鉄サリン事件とのニアミス、結婚式前夜の春の嵐、退社、さらにハネムーンでバラ色の気分で降り立ったSFOで不法滞在者として疑われてパスポートを取り上げられるなど、どこまで行っても、事件が起こる。
​
その辺は、また次回のお楽しみとして、書き続けようと思う。
0 Comments

ひさみの超私小説③:恐竜の化石より価値ある誕生日プレゼント

4/2/2021

0 Comments

 
Picture
私の超個人的なお話③。前回の②では、英語の"If"が聞こえずにプロポーズされたと勘違いして、結婚のプラン作りをしてしまったことを書いた。今回は実際に結婚する前の幾つかのポイントとなるエピソードを書いておく。

「昭和天皇の戦争責任について、君はどう思ってる?」

1994年の夏、私はとても楽しく多忙だった。「シンカンセンひさみ」の異名をとった私は、毎週のように、土曜日の早朝、真っ赤なユーノスで、彼の赴任先の田舎町に向かった。

彼のお気に入りの地元の居酒屋「あかさたな」は、穴蔵のような薄暗い店内で、寡黙なマスターが1人で全てを賄っていた。港で陸揚げされたばかりの獲れたての魚と、マスターが指定した田んぼから作られる日本酒が美味しいお店だった。彼は良く1人でこのお店に通っており、マスターは彼が行くと、喜久水酒造で作られた出来立ての特別の新酒をふるまう、親しさだった。

​PS:残念ながら、その後、あかさたなは火事で消失し、マスターは癌で亡くなったと聞いている。以下は夫がマスターからもらった「あかさたな」の法被。
Picture
Picture
或る日、彼はアメリカ人の同僚と私を伴って、「あかさたな」に向かった。日本酒が苦手な私は、最初はしんどいかな?と思っていたが、何故かマスターが選ぶ新酒は飲みやすく、美味しく感じられた。お通しが配られた後、突然「ひさみは、昭和天皇の戦争責任についてどう思ってる?」と、質問された。その日は彼の同僚もいたこともあり、私は当初から緊張気味で英語を喋ること自体がまごまごしていたが、席に着いた直後にこの質問に直撃された。

「えっ、ちょっと待って」と、普段ならば考える前に言葉が出てきてしまう私なのに、この時ばかりは珍しく、考える猶予をもらった。

私は「今までその件に関して、個人としてそんなに深く考えたことがなかった。まず文献などを読んで、私なりに考えをまとめて、改めて話します。」と答えた。私は内心「アメリカでは政治や宗教の話題は、食事の際に避けると思っていたのに。何で、こんな質問をするのだろう?」と思ったが、これは面白いトピックスだ、調べようと、即座に決心した。

当時、丁度『入江相政日記』の文庫版が発行されており、1969年から1985年まで昭和天皇の侍従長を務めた彼の日記は賛否両論を浴びながら話題となっていた。私は東京に戻り、すぐに昭和天皇の素顔を知るための資料として、日記を読み始めたことを思いだす。
​
注:1994年当時は、携帯電話もインターネットも一般に普及していなかった。誰も検索などという言葉すら、アタマに浮かばない時代。資料は図書館、書籍、雑誌といった文献に頼るしかなかった。

会話のトピックスにタブーはない!彼との会話はとても刺激的だった

彼との会食で私がエンジョイしたのは、様々な話題を遠慮なく何でも話せる雰囲気だった。それ以前は日本人のボーイフレンドとの会話で、政治或いは社会的な課題に水を向けると、食事中だからそういうコトは話したくない、と避けられることが多かった。それと真逆な彼との関係は、何でも腹蔵なく話せて、開放感があり、実に心地よかった。今から思うと、英語が出来ない私が、なぜそんなに色んな話を、彼と話せたのかは大きな疑問であるが、彼は聞き上手で尚且つ「日本人の英語(発音やアクセント)」に慣れていたことが大きな助けとなった。

1週間後の週末、我々3人は、またしても「あかさたな」に集合した。私は満を持して「昭和天皇の戦争責任に関しての私見」を2人に披露した。私は、近代以前の歴史に関しては大好きで、かなりの書籍を読んでいたが、その時まで、大正・昭和の近代史にはあまり注意を払っていなかった。自分の中で、漠然と、日本は、軍部、軍閥、右翼の暴走によって、第2次世界大戦に突入し、昭和天皇は彼らに引きずり回されたと思い込んでいた。但し『入江相政日記』の読後、当時の天皇の意思や発言の重要性と影響力を分析すると、簡単に「戦争責任」は皆無だったと言い切れない、という考えに至った。

日本人同士だと、タブー視して、天皇に関する話題を議論することはまずないと思うが、2人のアメリカ人相手に、私はあくまでも私見として、自分の考えを述べた。今思うと、相当しどろもどろの英語の説明で、彼らがどこまで私の考えを理解したかは不明だが、2人は私の熱を帯びた話っぷりに惹かれ、さらに大いに感じ入ったようであった。

私はこの時、1つだけ、実にまずいと思える、ミスを犯した。何かの拍子に、米国のネイティブピープルの話となり、私は何の疑いもなく、その同僚も白人だという前提で(彼の容姿はどう見ても白人にしか見えなかった)話し始めた。決して差別的なことを言った記憶はないが、その会話の終わりごろ、同僚から、自分の祖母はネイティブピープルで、自分はクォーターだと告げられた。

​思い返すと、当時の自分は、簡単に表面的な容姿でその人を判断する危うさがあった。現在は複雑な人種が絡み合った米国社会で、常にDEI(Diversity, Equity and Inclusion)が念頭にあり、こういう発想は考えられない。

"Common sense is the collection of prejudices acquired by age eighteen(常識とは18歳までに身につけた偏見のコレクション)" Albert Einstein

今から26年前の日本は、今から思うと「常識という言葉を借りた、偏見だらけの時代」だった。私は1979年から1995年まで、日本の広告代理店で勤務していた。当時は、男女雇用機会均等法もなく、企業は、短大卒の女性(20歳)を「総合職(お茶くみ、雑巾がけ、コピー取り、新聞雑誌の切り抜き、宅配便替わりの書類の配達など)」と称して雇用し、2年間勤務した後は「寿退社(結婚による退職)」してくれることを期待していた(女性社員を早々に入れ替えて、平均年齢の若さを維持しようとしたのかもしれない)。

私は、4年制大学でマスディアとマスコミュニケーションを専攻し、尚且つゼミナールで『学生広告論文電通賞』に入選したことのある異端児だった。広告代理店に入社できた理由は、広告業界に影響力のあったゼミの教授が、強く私をエージェンシーに推薦したことが大きかった。入社決定時に会長から「大柴さん、役員会では、はっきり言ってあなたの入社に関して強い難色が示されました。お勉強とビジネスは違います、それをよく覚えておくように」と、大きな釘を、グサッと刺された。

初めてクライアントのコネクションなしで入社した私は、当時の女性の総合職の仕事を全て午前中で終わらせて、上司に「もっと仕事をください」と懇願する日々が続いた(当時はクライアントに頼まれて、その子弟を入社されることが多く、酷い名称だが人質と呼ばれる人達がかなりいた)。

幸いなことに、私の上司達は、女性社員としては異例の私の仕事へのやる気と能力を評価してくれたため、徐々に広告代理店らしい仕事を獲得した。入社後の1年目の1980年、Cliniqueのアカウントを獲得した私のチームは、クライアント(部長以外は全て女性だった)の要望で、女性としての実感レベルのナレッジが必要ということで、担当営業として私はチームに組み入れられた。

その後15年間は、アインシュタインのいうところの「常識という偏見のコレクション」の企業社会で、その全てを打ち破るがごとく、猛烈に働き、結果年間広告費30億円以上のアカウントの責任者となった。この間の話はいくらでも書けるが、この超私小説ではそれらを省いて、先を急ぐ。
​

重くて今日は持ってこれなかったんだ、君への誕生日プレゼント

1994年11月25日の私の誕生日、彼は、"Rhythm Country and Blues"のCDを「はい、プレゼント、誕生日おめでとう」と言いながら、私に手渡した(後に、私はこのアルバムに関して、米国移住後初の英語のエッセイを書くこととなる)。
​
彼は「もう1つあるんだけど、それは持ち運べないものなんだ」と言って、照れていた。「今、UC Berkelyの古生物学部が、T-Rexの化石展示の寄付を集めているんだ。ひさみは大の恐竜好きだから、君の名前で『T-Rexのあばら骨と歯の化石』の寄付をしたんだ。来年にはその展示館は完成して、君の名前は寄付者として一生UC Berkelyの博物館に残るよ」と言われた。
Picture
私は、最初彼の言っている意味が分からず、英語がアタマの中を吹き抜けてしまったが、徐々にその意味を理解し、大いに驚き、尚且つ喜んだ。
まず真っ先に「日本にいながら、どうやって仕事とは関係ない、そんな大学の寄付のことを知ったの?」と聞いた。彼は「インターネットって知ってる?仕事上でインターネットにアクセスできるので、"Own a piece of the Rex"キャンペーンの情報を、たまたま目にして、プレゼントはこれしかない!と考えたんだ。」とさらっと言う。

私は当時コンピュータ(Windows 95は翌年登場する)を使ったこともなく、インターネットの概念すら皆無だったが、彼が恐竜の化石を買うのではなく、恐竜研究のために寄付をして尚且つ寄付者の名前が永遠に残るという行為をしたことに感動した。 
​
Picture
PS:因みに、私は当時日本恐竜クラブの会員で、メンバー同士の会合にはよく出席しており、私達のハネムーンは、恐竜の化石で有名なUtah州のVernalがメインとなった。

​私達は、また翌年UC Berkelyの古生物学部主催のT-Rexの展示のオープニングに招かれた(彼も自分の名前で鉤爪と足の指の分を寄付していた)。そこで2人の名前が寄付者として刻まれているのを目にし、さらに私が、尊敬してやまなかった古生物学博士で恐竜研究の大家
Jack Hornerにも会えたことは大きな喜びだった。彼は映画『Jurassic Park(ジュラシック・パーク)』の全作品のテクニカルアドバイザーを務め、物語の主人公の博士は彼をモデルにしている。
Picture

告白:彼への誕生日プレゼントは実にナイーブな当時の私らしいものだった

今だから告白するが、当時の私は非常にナイーブで、このプレゼントを貰う前、彼への誕生日プレゼントは、Bcarattのハート形のクリスタルだった。『私のハートをあなたに』というメッセージを込めたもので、当時の日本のバブルを引きずっていたのか、非常に物質的なブランドモノをあげてしまった。さらにもっと意味のないコトに、このハートはPaperweightぐらいにしか使えず、機能性とは程遠いモノだった。
Picture
日本時代の私は、ある意味とってもロマンティックであったのかな?という、言い方もできるが、当時Bacarratのグラスは結婚祝いなどでよく贈られたブランドで、あの時代を象徴するものだった。

昭和天皇の戦争責任と恐竜の化石への寄付が、私にとって意味するコト

一見無関係に思えるこの2つのエピソードが、なぜ私にとってそんなに重要だったのか? 

1つは、私はどんな話題でも彼とは、恐れることもなく堂々と話せるという点、即ち、2人は人間として非常にフラットな関係であるということ。2つ目めは、恐竜という私が本当に関心のある事柄への理解が深く、それを寄付という『Purpose-drivenな行動』、言い換えると彼の価値観を見せてくれたこと。これらは、その後の私達の人生において、とても重要な部分となる。

子供の頃から、私は「結婚するなら、人間として心から尊敬できる人」と思っていた。男女といったGenderのみで物事をとらえるのではなく、生涯のパートナーとして、長い人生を歩むこととなるのが、結婚である。その場合、最も重視すべきコトは、その人の『人間性(Humanity)』だと信じていた。

幸運なコトに、私は彼の人間性を垣間見て、さらに2人が平等でフラットな関係であることを確信できた。これ以降26年に渡る私達の長い旅路は、山あり谷ありの厳しいものとなるが、まずは、2人はスタート地点に並んだ。
0 Comments

ひさみの超私小説②:2時間話さなくても心地よく感じる、『結婚』ってこういうものかな?

3/27/2021

0 Comments

 
Picture
前回の出会いが好評だったので、気を良くして、その後を語ります。私の超個人的なお話②
「緑の中を走り抜けてく真紅なユーノス~」

1994年3月24日の深夜の出会いの後、2日後の土曜日に、借りた傘を返すために、その男性と再会した。何の気兼ねもなく、英語で会話ができることに驚きながら、私はディナーをエンジョイした。彼が翌日の予定は?と聞くので、特にないと答えると、じゃあ明日も会わないか?と誘われた。丁度桜がどんどん開花し始めていたので、私はお花見をしようと決めた。

オープントップの真っ赤なユーノスロードスター(Eunos Roadster)(米国ではMazda MX-5 Miata)で、私は全日空ホテルに彼を迎えに行った。
​
1989年5月父が亡くなり、私は自分だけの車が欲しいと思い、その年発売予定のユーノスロードスターを買うことに決めた。予約がいっぱいで翌年じゃないと入手できないとディーラーに言われたが、来年まで待てない私は、当時の知人で、電通のマツダ担当に相談した。彼はマツダの部長に直接お願いすれば、何とかなるかもと言われて、部長を紹介された。部長は会った瞬間「大柴さん、予約なしで、すぐにユーノスを調達します。但し条件があります。色は赤です」と言われた。私はシルバーだと決めていたので、「えっ、赤ですか?」と聞き返したが、部長は「大柴さんがオープントップの赤のユーノスで街中を走れば、ユーノスの大きなPRになるので」と言われ、結果、赤のユーノスを買うこととなる。
Picture
PS①:この後、初代ユーノスの「ゆーちゃん」とは米国移住の際に別れを告げるが、米国でもゆーちゃんの姉妹Miataの「みあちゃん」との関係が生まれる。それは追って触れていきたい。
Picture

Eunos Roadsterの革新性は、能の「小面」をイメージしたフロントデザインにも表れていた

このユーノスロードスターに関しては、Wikiで、当時如何に革新的で、消滅しかかったLight weight sports car(軽量スポーツカー)市場を活性化させて、多くの車メーカーに影響を与えたかが分かる。

1989年5月にアメリカで発売された。日本国内では同年8月に先行予約を開始し、9月1日に発売された。発売初年には国内で9307台を販売、翌年は世界で9万3626台を販売してスポーツカーとしては大ヒットとなった。このロードスターの成功を受けトヨタ自動車(MR-S)や本田技研工業(S2000)などの国産メーカーだけでなく、MG(MGF)やフィアット(バルケッタ)、BMW(Z3)、メルセデス・ベンツ(SLK)、ポルシェ(ボクスター)といった海外メーカーまでが影響を受け、中小型オープンカーが開発された。消滅しかけていたと思われていたライトウェイトスポーツカー市場が活性化する起爆剤になった。
2000年には生産累計53万1,890台を達成し、「世界で最も多く生産された2人乗り小型オープンスポーツカー」としてギネスブックの認定を受けた。また、2004年の生産累計70万台達成時、2007年1月30日の生産累計80万台達成時、2011年2月4日の生産累計90万台達成時にも記録更新の申請を行い認定されている。そして2016年4月22日にはついに生産累計台数100万台を達成した。

デザインモチーフには「日本の伝統」を記号化したものが多く用いられたこともあり、そのユニークさは際立っていた。フロントマスクは、能面のひとつである「小面(こおもて)」からインスパイアされたもの。シート表面のパターンは畳表の模様、リアコンビランプは江戸時代の両替商が使った分銅の形をデザインしている。
​
以下は、柏木裕美一面打師による「小面」の写真プリントで、奈良の春日大社に奉納されている。私は2004年に彼女の能面展に出かけて入手した。私の「ゆーちゃん(私はロードスターをこう呼んでいた)」は、まさにこの能面のような顔立ちで、私は彼女を親友のように思い、こよなく愛していた。
Picture
PS②:私は1995年米国に移住し、2000年のドットコムバブルの終わり頃、日本の伝統工芸のオンラインサイトを起こすべく起業し、資金調達に走り回っていた。

その当時日本の文化をより深く知るために、知人に紹介されて、能の人間国宝の櫻間道雄の孫として生まれ、第21代
櫻間家当主となった櫻間右陣(私がお目にかかった時は櫻間真理)のご自宅に伺う機会を得た。

​櫻間家の「面(おもて)」を手渡されて、面を顔に当てて、内側の眼の位置から外の世界を垣間見るという機会を得た。私は、まさに何とも言えない、表現しにくい世界が見えて、面の不思議さを味わった。私は、能という世界の奥行きを、櫻間家の面によって知らされた。

「シンカンセンひさみ」参上!

私は、真っ赤なポルシェではないが、ユーノスに彼を乗せて、満開の千鳥ヶ淵に向かって走り出した。当時は、良く車で会社に行っており(バブルだった)、都内の道は、裏道や一方通行を含めてかなり知っており、ちょこまかとシフトを変えながら、車を走らせた。彼は目を丸くして「君はまるでCab dirverみたい。この迷路のような東京の色んな道を知っている」と驚いていた。

当時、彼は東京から離れた田舎町に赴任しており、何度か東京で会った後、GWに遊びに来ないかと言われた。彼の赴任地は、国分寺の実家からは、列車を乗り継いで4時間かかるところ。こういう列車に乗ること自体が、私にとって旅を意味し、東京生まれの東京育ちで、入社後もひたすら東京の夜を徘徊していた私は、田舎の居酒屋体験に1人でワクワクした。

地元の人で混み合う居酒屋で、私は全く彼らの話す言葉が聞き取れず、外国にいるような気分で、ちょっと高さのある座敷で胡坐をかいていた。彼は「僕は、いつも彼らの日本語と聞いているので、君が東京で他の人と話す日本語を初めて聞いた時、なんてクリアで聞き取りやすく、綺麗な日本語を話すんだろうと、感心したんだ」と言われ、彼の気持ちが理解できた。

そんな中、私は珍しく早めに仕事を終わらせて帰宅出来た金曜日の夜、突然週末は彼のところで過ごすことを思いつき、早朝車で向かうと彼に電話した。いつもは4時間近くかかる列車の旅であったが、早朝で道も空いており、ユーノスで高速道路をスピード違反ぎりぎりの速度で飛ばしに飛ばして、3時間で彼のアパートメントに着いてしまった(告白:120kmの制限速度であったが、多分130-140kmぐらいは出したかもしれない)。
​
ドアをノックすると、彼は部屋の掃除の最中で、私の到着時間のあまりの速さに驚き、「もし新幹線が開通したらこのスピードだ。君は『シンカンセンひさみ』だね」と絶句していた。

雨の中、2時間黙って時を過ごした2人

その日は朝から雨が降っていた。彼は新たなステレオプレイヤーを購入したので、そのセットアップを始めた。私は雨の音を聞きながら、田園風景を目にして、持参した小説を読み始めた。セットアップが終わった彼は、迷うことなく、Eric Claptonのアルバム『Unplugged』をターンテーブルの上に置いた。私達は、何故か何も言わず、ただアルバムを聴き始め、およそ2時間近く、2人の沈黙は続いた。
Picture
私はふっと思った。2時間何も話さなくても、非常にリラックスして気持ちがいい。こんな風に、言葉を必要としない心地よさが、得られる相手ってそんなにいない。「結婚ってこういうことかな?」

今まで、こういう風に考えたことがなかった私だが、雨の中の沈黙の2時間は、私に何かを教えてくれた。私は、この人とずっと一緒にいたいと初めて、心から思った。
​
私は彼に「2時間近く話さなかったけど、気持ちよかった」と告げると、「僕も同じようなことを考えていた」と、彼は答えた。

田舎町初のタクシーの送り迎えによる海水浴

『シンカンセンひさみ』は、その後も度々真っ赤なユーノスで、3時間という超スピードで、彼が住む田舎町に通った。彼のアパートメントの裏にはトウモロコシ畑とひまわり畑があり、季節が移り、まばゆいばかりの色に染まって行った。

ある週末、彼が仕事のためにオフィスに出かけた。手持無沙汰の私は「そうだ!あの太平洋の海岸で泳ごう!」と思い立ち、早速電話でタクシーを呼び出した。運転手さんに、「ビーチへ」と告げて、近くの海岸に連れて行ってもらった。太平洋の大海原の波の荒い海岸には、海水浴場がある訳でもなく、人っ子一人おらず、怪訝な顔の運転手さんに、2時間経ったら、迎えに来て欲しいとお願いした。

1994年当時は、今では想像もつかないほど、プリミティブな時代だった。勿論、携帯電話もインターネット(日本では皆無に等しい)もなく、コミュニケーションは、固定電話がメインで、あとはFax或いは手紙という、スロウな通信手段で、時間は誰に対しても、ゆっくりと流れて行った。

流石に太平洋の荒波は激しく、私は何度も海中に叩きつけられた。久しぶりの太平洋の海水は実に気持ちよく、母の故郷の伊豆大島で、夕方唇が紫色になるまで泳ぎ続けた、子供時代を思い出した。泳ぎを満喫して、海水でびしょ濡れの私は、どこかで海水を落とさねばと思い、周りを見渡すと、丁度海に流れ込む川がそばにあり、川にじゃぶじゃぶ入って海水を落とした。海岸に迎えに来た、怪訝な顔の運転手さんは、「何をしていたの?」と聞いた。私は「海で泳いで川で海水を落としてきたので、車は汚れません」と答えた。運転手さんは、「あれまあ、お客さんが初めて。この海岸で泳ぎたいからって、車を呼んだのは。泳ぎが出来るんだね、お客さんは。普通はこの海岸は波が荒いから、誰も泳がないんだよ。それも川で身体を洗うとは賢いねえ」と言って、目を丸くしていた。

オフィスから戻った彼に、今日何をしていたの?と聞かれ、私はタクシーを呼んで海で泳いで来たと答えると、またしても口あんぐり状態となった。経緯を話しながら、川で身体を洗ったという部分では、思わず吹き出した。「君はやろうと思ったことは絶対にやり遂げるんだね、プランなしに」と絶句していた。
​
英語の"If"が聞こえず、勝手にプロポーズされた思い込んで結婚を決意した私

いつの頃だか、はっきり記憶にはないが、彼が、何かの拍子で、私に"If We Got Married..." と言った。私は、この後に続く言葉を覚えていない。また、これは今だから言えるが、この"If”という言葉が、完璧に私の耳に入ってこなかった。

​私は、この"If"が抜けたフレーズに、アタマの中で即座に反応した。「あっ、プロポ―スされたんだ!小説や映画の中のプロポーズの台詞とは随分違うけど、まあいいや、彼はシャイだし、間接的なプロポーズなんだ」と、思い込んでしまった。

その後、プロポーズされたかどうかの確認もせずに、私は結婚を機に、会社を退社すること(彼の住む田舎町から通勤は困難)や、退社後の田舎町での私の仕事は文章修行をして報道記事を書くことなど、様々なことを考え始めた。ある程度プランがまとまった私は、早速「結婚式は、子供の頃から夢見た、満開の桜の樹の下でしたい。来年の4月がいいと思う。場所もある程度、あたりをつけたの」と伝えた。この時、彼が沈黙したのは、何となく覚えている。

その後も色々あったが、結果、翌年の4月8日のお釈迦様の誕生日、前日までの春の嵐が打って変わったような晴天の中、私たちは、満開の桜の樹の下で、式を挙げた。

暫くして、時がたってから、

彼は「あの時、君は"If"が聞こえなかったたんだね」

私は「えっ、あの時、私にプロポーズしたんじゃなかったの?」

彼は「うん、してない。もし僕たちが結婚したら何々だね、と仮定の話をしたんだ」

私は「どうして、私が結婚式のプランを話し始めた時に、それを言ってくれなかったの?」

彼は「君がやり始めたことは誰もとめられない。それに君が勘違いしたままっていうのも悪くないと思ったから」

英語が出来ないっていうのも、案外悪くないってことを証明する、私の物凄く私的なストーリー。
0 Comments

ひさみの超私小説①:27年前の雨の六本木ラブストーリー

3/23/2021

0 Comments

 
Picture
1994年3月24日木曜日の夜に起きた、私の超個人的な話。

「日本酒ですか?」

「今日は和食に日本酒のディナーです」とクライアントに言われた。私は「日本酒のみですか、そのお店は?」と聞くと、彼女は「そう」とさらっと会話を終わらせた。

私は内心「いやあ、まいったなあ。日本酒は得意じゃないけど、断るわけにもいかないし。兎に角、お酒は抑えめに行こう」と言い聞かせて、六本木に向かった。彼女は広報担当で、私とはすでに長い付き合いで、NY出張も含めて様々な場所に一緒に出掛けており、個人的にもかなり親しい間柄であった。
​
星条旗通りにぶつかる手前の細い道にあった和食のお店は、料理も美味しく、普段は自分では滅多に飲まない日本酒がその料理とぴったり合って、私は自分への戒めを忘れ、彼女と一緒にどんどん飲んでしまった。詳細は忘れてしまったけど、この和食のお店で食事が終わった頃には、かなり酔っていたことは確か。彼女は〆るために、近くのバーに行こうと言う。「いやあ、もうダメです」という私を引っ張るようにして、元防衛庁の横の小路のソウルバーに向かった。

ソウルバーGeorge's

彼女は英国留学もしており、英語は堪能で、Jazz SingerのCarmen McRae(カーメン・マクレエ)の日本公演では通訳をしたこともあるぐらい。また奇妙なコトに、彼女も私も、個人的には別々に、六本木の夜の〆は、このGeorge'sに来ていた。
​
1964年にまで遡る伝説のソウルバーGeorge's は、幅約2mで奥行き10mほどのうなぎの寝床のようなスペースに、カウンターと丸椅子が15席、そして名物のジュークボックス(EP版80枚でA面B面合わせて160曲)があるだけの狭いバー。 薄暗い店内の壁や天井には今まで訪れた海外の有名ミュージシャンのサインやポスターなどが無数に飾られ、カウンター席は座ると後ろが30センチにも満たない空間で、時間帯にもよるけど、後ろに立ち飲み客が入ることもあった。
Picture
www.georgesbar.co.jp/history.html
オーナーのママさん(岡田信子)は、ガーナ大使館勤務の経験もあり、黒人文化に精通していた関係で、多くのアメリカ兵が出入りしており、当時日本で唯一ソウルミュージックが、ジュークボックスで聞けるソウルバーだった。Wikiでも、以下のように描写されているけど、常連客主体で、ママさんが気にいるかどうかが、肝だったことは、覚えている。

​当時日本ではなかなか聴くことの出来なかった 最新のソウルミュージックを目当てに日本人客がやがてジョージスに出入りするようになる。 その時代のアメリカ兵の溜り場の敷居を日本人がまたぐことは容易ではなかった(岡田信子談)。 当時出入りしていた客によると、出入りする日本人客たちには必然的にアメリカ兵たちと対等に店内空間を共有にする事の出来るつわものが多かったため、客同士の喧嘩やトラブルも絶えなかったという。 その上、常連となった客の仲間意識が非常に強かったため、その後のジョージスには客を選ぶ店としての印象が付きまとった。 次第に時代が進むにつれて日本人客の割合が多くなったものの客を選ぶ店という評判のもと、人づてで多くの芸能人や著名人で常連となる者も増え(海外のミュージシャンが特に多かった。ダリル・ホール&ジョン・オーツはその中でも特に親交が深かった)、さらに客を選ぶ店というイメージが高まり一見客はとても入れる雰囲気ではなかったという。 実際に後のジョージスは次第に常連色の強い店と形成されていき、一見客がほとんど寄り付かない異色な店と変化していった。 現在営業する老舗のソウルバーのオーナーの中にはこの頃の常連だった人々も多く、他にもジョージスから影響を受けた著名人は少なくない。 鈴木聖美 with Rats&Starが歌った「TAXI(作詞 岡田ふみ子、作曲 井上大輔)」の歌詞にも「Georgeの店」として登場する。2001年にオーナーの岡田信子が他界。2005年8月24日、東京の西麻布にて営業再開。

​1994年3月24日木曜日の夜、George's は、何故かたった2人の外国人のお客のみで、ガランとしていた。ジュークボックスのそばのカウンターの2席が空いており、男性客はその3番目と4番目の席に座っていた。

​私たちはためらいもなく、ジュークボックスのそばの席に座った。ご機嫌な彼女は、隣の男性に自己紹介をし始めて、私の方を振り返りながら「この子は沖縄から来たばかり、英語はあまり出来ないし、すでに酔っているから、気にしないでいいわ」と告げた。

​ジュークボックスと傘

George's のカウンター席は、幅2mしかないので、トイレに向かうたびに、座っている外国人男性に声を掛けねばならなかった。酔ってはいたものの、George'sではジュークボックスの曲で踊ることが好きだった私は、ジュークボックスの前に立っていると、突然クライアントと話していなかった、もう1人の男性が私に近づき、Do you wanna dance?と聞いてきた。私はためらないもなく、Sureと、答えてしまった。残念ながら、どの曲で踊ったかは、今は全然思い出せない。
​
その後、暫くして、終電間際であることに気が付いたクライアントは、シンデレラの如く「電車がなくなる、帰らなきゃ!」と叫んで、飛び出した。何故か、私は彼女の後を追うコトもせずで、そのまま、ソルティドッグを飲みながら、その男性と話し続けた。小1時間も経った頃、外では雨が降り始め、私は「帰らなきゃ」と言って、店を出ようとしたら、その男性は折り畳み傘を差し出した。私はその傘を差しながら、タクシーを掴まえて、家まで帰った。

​「大変です、外国人が3回も電話してきました」

日本酒とソルティドッグのブレンドが効いた、翌朝の私のアタマの中は、小人が小槌でガンガン叩いているような状態。電話で私は「今日は午後出社します」と言うしかなかった。電話口の部下は「大変です、外国人がすでに3回も電話をかけてきています。必ず電話してください」と言われた(当時私は英語が出来ないというラベルを貼られており、部下はそんな私がなぜ外国人とコミュニケーションをしたのかが、不思議だったんだと思う)。

思わず「はあ?」と考えたが、「あっ、そうか」、名刺交換したし、傘も借りていたんだと納得した。

傘を返すにしても、ちょっと面倒くさいと思いながら、男性に電話すると「昨晩、君は酔っていたみたいので、今晩改めてディナーはどうですか?」と聞かれた。

私はアタマの上までアルコールが入った状態で、今晩ディナーなんか、とんでもないと断ると、彼は「今晩東京を離れるけれど、週末に東京にまた戻ってくることは可能なので、土曜日か日曜日、ディナーはどうか?」と言われた。
​
傘を借りている手前もあるし、氏素性もしっかりした男性だったので、私は土曜日に傘を持って、全日空ホテルのロビーに向かった。

​きちんとタイを締めてスーツを着て待っていた男性

George'sでは、カーキのパンツにレザージャケットという軽装だったその人は、全日空ホテルのロビーで、ロングコートにタイとスーツという、フォーマルな姿で私を迎えた。私は逆に週末なので非常にカジュアルな格好で、ちょっと戸惑ったが、彼は礼儀正しい態度で、私をイタリアンレストランに連れて行った。

そこで何を話したかは、今イチ思い出せないが、英語が出来ないと思い込んでいた私が、何故か、彼とは自然に英語で会話が出来て、無理なく話せたことだけは、記憶にこびりついている。
​
1994年3月24日の夜から、1年と15日後、その男性と私は、満開の桜の樹のもとで結婚式を挙げた。
Picture

六本木のGeorge's からSaint Georgeへの旅

あの夜、George's のジュークボックスと、折り畳み傘がなければ、2021年3月24日の今、このSaint Georgeの自宅に、夫と2人でいるというコトはなかったと思う。
​
六本木のGeorge'sからSt Georgeへと、27年間、夫と2人で人生の旅を共にしてきたけど、私は最近ますます自分は幸せ者だと思う。そして、この後も、この人と長い旅を続けていきたいと、思っている。
Picture
PS:あのクライアントとは、今でも仲が良く、彼女は今でも冗談で「なぜ、彼はあなたを選んだのかしら、不思議。本当は私だったはず…」と笑いながら話す。
0 Comments

アメリカの現実⑯「過去のデータから未来を予想するAIには、バイアスが存在する」

3/14/2021

0 Comments

 
Picture
Alphabetに勤務していたAI研究の第1人者の解雇問題は、私に将来の社会への不安をもたらした

2020年12月、Alphabetに勤務していた「倫理的な人工知能(AI)研究の第1人者」のTimnit Gebru 博士が、退職した(彼女は解雇されたと明言している)。
Picture
Picture
By TechCrunch - https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=97995768
解雇理由として、彼女は、自分の研究論文撤回を拒否したことと、女性社員昇進に関する彼女自身のフィードバックをAlphabetが無視したと同僚へのメールで批判したことを、挙げている。

その後CEOのSundar Pichaiは、文書で「博士の退社に対する反応は、はっきりと聞こえている。それは疑念を植え付け、われわれのコミュニティの一部がGoogleにおける立ち位置を自問するに至った」と指摘し、「非常に申し訳なく感じており、信頼回復に努める責任を受け入れたい」と述べている。

私は今後の私たちの生活に与えるAIの影響力を考えると、この件を目にして、背筋が、ぞくっとしたことを思いだす。
​
Gebru事件は「経営者が職場で聞きたくない問題、差別が常に職場に存在する」ことを示唆する

Gebru博士は、AI倫理研究分野のリーダー的存在であり、AI関連の黒人団体「Black in AI 」の共同設立者でもある。彼女は「顔認証が女性や有色人種の顔を認証する上での正確性は他より低く、顔認証の使用はこうした人への差別となりかねない」と指摘する、革新的な論文を共同執筆したことで有名な人物でもある。

彼女が解雇されてから、Alphabet社員2,500人以上と学術・産業・市民社会の支持者4,000人以上がGebru博士を支持する請願書に署名した。請願書は、「Gebru博士は、類まれな才能を持ち大きな功績を収めた貢献者としてGoogleから受け入れられるのではなく、保身的な対応や人種差別、Gaslighting(相手が自分の考えを疑うよう仕向ける心理的策略)、研究の検閲を受け、最後に報復として解雇された」と主張している。

2020年のLeadership IQによる5,778人の米国成人対象の調査「Many Leaders Don’t Want To Hear About Discrimination In The Workplace(多くのリーダーは、職場での差別の話を聞きたくない)」で、職場で自分への問題を起こすことなく常に報告できると感じていた黒人社員はわずか13%だった。また、職場での差別に関する懸念を報告すれば、経営陣は常に解決のため意義のある行動を取ってくれると答えた女性はわずか23%だった。
​
多くの企業は「聞く姿勢」を見せるが、企業はその際に自己弁護や正当化を試みる。

経営者にとって、職場における差別問題や懸念を聞くことは容易ではなく、尚且つ時には不快な気分になる。これは「認知的不協和」、即ち心理的に相反する2つの考え(或いは態度や意見)を持つ時に生じる不快な緊張状態を創出してしまうからである。

私は、当初AlphabetのCEOのPichaiも非白人であるのに、なぜGebru博士の見解を理解出来ないのか?と一瞬考えたが、シリコンバレーにおけるアジア系非白人は、マイノリティとは言い難い点から考えれば、これは納得がいった。Gebru博士の場合は「黒人+女性」というマイノリティの比重は乗数となり、尚且つAIという今後社会において最も重要な影響力を及ぼす領域で、「女性と有色人種への差別にもつながる、顔認証の不正確さの指摘」は、Alphabetにとって、かなり耳が痛い話である。

Alphabet社員たちのGebru事件以降の急速な動き

2021年1月Alphabetでは、シリコンバレーでは非常に稀な動きであるが、労働組合が結成された。現在社員200名以上が「Alphabet Workers Union」に加入した(Alpabetの社員は13万2000人以上)。Communications Workers of America Local 1400(米国通信労働組合の1400支部)と提携し、全社員及び契約・派遣社員を対象とする初の労組で、年間の基本給とボーナスの1%を組合費として、毎年支払う組合員によって支えられる。組合の目標は、団体交渉やAlphabetによる正式承認ではなく、「キャリアへの影響に直面することなく、社員が自社について発言できるようにすること」だという。

Alphabetは長年、社員の開かれた議論を促してきたが、一方では社員間の政治的な会話を抑制する狙いのルールも導入している。こうした状況下で、社員の不満は増加し、2018年には数千人の社員が、セクシャルハラスメントの加害者を昇進・保護する職場文化があると訴え、抗議運動に立ち上がった。組合員は、Alphabetが自社に批判的な社員に報復している、差別や嫌がらせの苦情にほとんど対応していないと指摘する。また今回の組合結成の大きな理由の1つとして、Gebru博士の解雇も挙げられており、積極的な行動に打って出ない限り、社内改革は行われないことを実感したという。
​

Gebru博士に続いて、またしてもAI倫理研究の女性が解雇される

2021年2月19日、AlphabetはAIの倫理研究の共同責任者だったMargaret Mitchellを解雇した。Alphabetによると、解雇理由は「ビジネス上の極秘文書と他の社員の個人情報をひそかに流出」させたためであるという。但しこれは、彼女はGebru博士を不当に扱った証拠を探っていたために、解雇されたと、言い換えることが可能である。
Picture
Mitchellは「私は自分の立場を行使して、Googleに人種と男女の不平等に関する疑念を提起しようとした。こうして解雇されたことに呆然としている」と、Finantial  Timesの記者に語っている。

Alphabetの多様性に関する最新の報告によれば、社員のうち女性は3分の1以下で(2019年よりもわずかに減少)、米国の社員の黒人が占める割合は5.5%である(米国人口の黒人比率は13%)。​Alphabetに限らずハイテク企業の人種及びジェンダーの不均衡は常に指摘されている事柄である。但し今後は、労組結成に見られるように、株主以上に「モノ言う社員」の圧力は増大する可能性が高い。さらに、これは人種やジェンダー以外に、労働者の権利や企業の環境問題の取り組みなど、広範囲な課題が取り上げられる傾向にある。​
​
https://diversity.google/annual-report/ 
Picture
Picture
​
​AIに倫理的で公平な判断をさせるためには、多くの人間の力が必要


Gebru問題は、AIが持つバイアスの問題に、人々の注意を向けさせた。膨大な数の過去のテキストから学習するAIは、人種やジェンダーに関する過去のバイアスを取り込んでしまう。より公正な判断をするAIの開発には、時間と資金を犠牲にしてでも、人間のチェックを介在させる必要がある。

政治科学者Virginia Eubanksの2018年の著書『Automating Inequality: How High-Tech Tools Profile, Police, and Punish the Poor(自動化する不平等)』では、医療や給付金、治安関連の業務で用いられるAIシステムは、官民問わず、偏ったデータと人種的・ジェンダー的なバイアスに基づいて、不安定で有害な判断を下すという。また、AIシステムは判断に至るまでの思考回路がブラックボックス化されているため、たとえ判断結果が間違っていても、それを確認したり、異議を申し立てたりするのが難しいという。
​
Picture
のAIは過去から未来を予想するため、バイアスが必ず存在する。この危険性を我々は認知すべきである

Gebru博士が論文で非難したツールは、Google検索システムで検索結果が表示されるまでの過程において、重要な部分を占める。このシステムは、我々の生活を効率的で便利なものにしてくれる。但し、AIは人間の活動や発言について莫大な量のデータを調べ上げて、そこからパターンや相関関係を見いだそうとする。いわば、過去の人間の動きから、未来を予想するという仕組みである。

これは誰もが思い当たるように、膨大な人種やジェンダーに関するステレオタイプ、偏見、差別が過去の我々の言動に存在する以上、それらのバイアスは当然AIに反映される。じゃあ、これを取り除くために、人間の介入や判断を取り込むとすると、どうなるか? 1つ目はその人間の倫理観念が本当に適性であるかどうかを誰が判断するのか? 2つ目は人間の介入によってデータ処理速度は低下してしまう、3つ目は費用がより大きくかかる、といったことが問題として、生じる。

この辺りを考え始めて、私はアタマを抱えてしまった。特に1つ目の「誰の倫理観念を適正と判断するのか?」が、重しのようにのしかかる。

2015年6月28日、NYのプログラマーが、アプリGoogle Photoにアップロードした、ガールフレンドとの写真(2人は黒人)が「ゴリラ」にタグ付けされた話は有名である。「ゴリラ」に限らず「イヌ」とタグ付けされた例もあり、その後Googleは「ゴリラ」のタグの削除やキーワードでの検索停止などの対応策を表明したが、抜本的な解決は今もされていない。

コロナ禍の米国において、特にコロナ発生源として中国が、前大統領の言動で煽られて、最近はアジア人へのヘイト発言や行動も事件化するほど目に付く。AIのバイアス問題は、様々な課題を私たちに突き付けてくるが、少なくとも、このAIのバイアスを持ちやすいメカニズムを理解して、多く人達がより偏見や差別のない言動をしていくしかないと思う。そのためにも、あらゆる場所における『Diversity &Inclusivity』が重要となり、企業内ではこの問題にしっかり立ち向かう必要がある。

困難な問題であるけれども、早急に解決しなければならない、非常に切迫した問題でもある。未来のために、今手を打つしかない。
0 Comments

ひさみが選んだ&考えた言葉達㉝

3/14/2021

0 Comments

 
Picture

​誰かに言われた「ひさみ語録をまとめてください」と。毎日様々な言葉がアタマをよぎるので、ここに記録していきたい。過去1か月間のまとめなので、大量です。
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
0 Comments

アメリカの現実⑮「森発言に関する一考察:ステレオタイプな考えはいつの間にか偏見や差別へと変容する」

2/22/2021

0 Comments

 
Picture
JOCの森喜朗元会長の発言・辞任といった一連の動きと論議は、実に日本的な流れで、相変わらず「不思議な国ニッポン」が存在していることを、世界に示した。私はこの騒動に関して、当初から女性蔑視という事よりも、森元会長の「一般論ですが」という言葉に非常にひっかかりを覚えた。なぜひっかかったかを書いておきたい。

「常識とは十八歳までに身につけた偏見のコレクションのことをいう」
Albert Einsteinは数々の名言を残しているけど、私がここで言いたいことを彼は語っている。


"Common sense is the collection of prejudices acquired by age eighteen(常識とは十八歳までに身につけた偏見のコレクションのことをいう)"
​

ここでいう、18歳というのは「大人になるまで」という意味で、これが16歳でも20歳でもよくて、その人が大人になったという自覚が来る時を、ここでは「18歳」と表現してる。

多くの人達は、社会が容認しているという前提で「常識」という曖昧な表現をしばしば使う。但し、これはある一定の社会で通じる物差しで、当然のように歴史的背景、文化、社会制度が異なれば、その固有の「常識」は通じない。

​英語の「Common sense」という語彙の成形を見ると、意味がすーっと入ってくる。「Common(共通)のsense(感覚或いは漠然とした感じ)」という単語で成り立っている。日本語の「常識」という漢字のように「常」という意味は、この「Common sense」にはない。即ち社会の人達が共通な感覚として、漠然として抱いているのが「Common sense」で、それは帰属する社会によって異なり、さらに時代によって変化する。
​
Einsteinが言いたかったことは、「Common sense」と呼ばれる曖昧な感覚を後生大事に抱えて生きていると、それは結果として「Prejudice(偏見)」に変容してしまうというコトだと思う。但し、これも英語の単語の成形から見ると、「偏見」というよりは「先入観」という日本語の方が適格であるように思う。「Common sense」という曖昧な共通の感覚を持ちながら、相手や物事を見たり判断したりすると、それは「偏った見方(偏見)」になる。

​そして当然のごとく、「偏見」も「常識」と同様に、その人が生きている時代と場所によって異なり、また変化していくものである。

​私の喉にひっかかる「一般論」という小骨

森元会長が発言した「一般論」という言葉は、私の喉に刺さった小骨だった。「一般論」という言葉は、Einsteinが指摘した「Common sense(共通の漠然とした感覚)」に置き換えられるからである。「一般論」とは、その人の人生における「Prejudice(先入観)のコレクション」であって、誰もが納得できる普遍的なものではなく、往々にしてデータ的な裏付けがなされていない。

​「女性がたくさん入っている理事会は時間がかかる。(中略)女性の理事を増やしていく場合は、発言時間をある程度、規制をしないとなかなか終わらないので困る。」「女性っていうのは競争意識が強い。誰か一人が手を挙げていうと、自分も言わなきゃいけないと思うんでしょうね。それでみんな発言されるんです」
​

また、この発言は2月3日に、「女性理事を40%以上にするというJOCの目標に関して質問を受けた」時に出たものである。そのコンテクストを考えると、彼は何らかの答えで、この質問をかわさなければならず、「一般論」という多くの人達が共有している論理という表現をかざして、防衛した。
​
仮に森元会長が、「これは私個人の見解ですが」と断って、例の発言をしたならば、私は、あえてここで、彼の発言を取り上げなかったと思う。但し、コロナ禍で開催が危ぶまれているこの時期、日本オリンピック委員会会長という立場で、この発言はありえないと思う。当然のように国内外を問わず、様々な論議が巻き起こるのは、必然である。

研究結果が示す森発言の誤り

当初この森発言への反応は、海外の方が早くまた強い批判が巻き起こった。私が取り上げたいのは、Forbesの心理学とジェンダーに関する記事をカバーする記者が、発言の翌日2月3日に指摘したポイントである。
​​
彼女は、森発言の2つのポイント「女性はお喋りである」、「女性は競争意識が強い」という点は、過去の調査研究に基づくデータによると事実とは異なる、ステレオタイプな発言と一蹴している。

​1) Deborah JamesとJanice Drakichの研究者によると、男女の話す量を比較した56件の先行研究で、女性が男性より話す量が多いと結論づけた研究はわずか2件で、逆に男性の方が発言が多いことを示した研究は34件あった。調査によれば、人の発言が多いかどうかは、性別よりも地位に関係している(発言が多い人は高い地位に就いていることが多い)。さらには、女性が発言をすると、主張が強すぎるとして反発を生むこともある。学術誌Administrative Science Quarterlyに掲載された2011年の論文によると、頻繁に発言する役員が男性だった場合は能力が高いとみなされる一方、女性の場合は能力が低いとみなされる傾向があった。
​

2) スタンフォード大学とピッツバーグ大学の研究チームによると、「男性の方が競争に対する意欲が高く、誰かと競うことでパフォーマンスが上がることが示されている。男性は競争好きなだけでなく、自分の能力に過剰な自信を持っているため、競争を追い求める傾向にある。」

​彼女は、森会長の事実と異なる女性への見解は、彼に限らず多くの人が無意識に思っている「女性はお喋りである」というステレオタイプな考えが一般に根差している点から来ることを指摘している。

社会が「偏見」を容認・黙認していると、それは「差別」へと変容する

こういう発言を、個人の失言として放置或いは黙認してしまうと、ステレオタイプな考え(=偏見)が助長されて、いつの間にか人々の意識下にもぐりこんしまう。そしてそれは「差別」といった形に変容して、思わぬところで、大きく顕在化する可能性が高い。これに関しては、過去自分のブログで何度も触れているので、ぜひ読んで欲しい。

米国には、人種民族、性別、年齢、性的志向性、宗教など、様々な「先入観=偏見」が存在する。理由は、多他民族国家であり、移民によって成り立っているという、米国の国家としての特性にある。そのため、国民全員が合意をとれるような共通の感覚は、殆ど存在しない。

だからこそ、過去4年間、前大統領は自分にとって有利になるように、平易で誰もが分かる悪意のある言葉で、米国民の違いをことさら掻き立て、ガソリンをまき散らして、偏見や憎悪に火をつけた。その結果が、1月6日の議会占拠暴動という、米国民主主義の崩壊をも感じさせるほどの出来事の創出である。

日本は、勿論米国とは大きく異なり、顕在化する「偏見」と「差別」が見えにくい社会である。でも顕在化していないだけで、当然のように「偏見」と「差別」は存在し、事実に基づかない「一般論」で、それが助長される可能性を常に秘めており、また助長され続けている。

「異なる者や考えへのRespect(尊敬)」ということを話したい​

私は「女性差別」とか「老害」などという言葉を使っていないし、「Political correctness」などといった意識もなく、物事を常にニュートラルに捉えているつもりである。但し、私から見ると、今回の一連の動きには、「異なる者や考えへのRespect(尊敬)」というものが欠落しており、その結果、それから受ける多く恩恵を見逃しているという気がする。この「異論の持つチカラ」に関しては既にコラムで書いたので、ぜひこちらも読んで欲しい。

ここであえて再度「性差」に関する別の調査を持ち出して「異なる者や考えを受け入れるとどんな恩恵があるか」を記す。これは「女性役員の存在は、男性CEOの自信過剰を抑制する」というHarvard Business Reviewの記事からの抜粋である。

「役員会に、女性役員がいることのメリットの一つは、視点の多様性が広がることである。これは取締役会における審議の質の向上を意味する。複雑な議題が絡む場合は、このメリットがいっそう顕著になる。なぜなら複数の異なる視点があれば、より多くの情報が得られるからである。」

​「さらに、女性役員は男性役員に比べて(多数派への)同調や迎合をする傾向が低く、独自の見解を表明する姿勢が強い。男性同士のネットワークに属していないからである。したがって女性メンバーがいる取締役会は、企業戦略の意思決定の場で、CEOに異議を唱え、より広範な選択肢と賛否両論を検討するように迫る傾向が強く、それによってCEOの自信過剰が抑制され、バイアスの可能性をはらむ考え方の是正につながる。」

​森発言の後にこの記事を読むと、実にアイロニカルな調査結果に思える。また別の調査でも、「ROIにおいて、女性役員比率の最も高い企業は、女性役員比率が最も低い企業より、66%も好結果を創出する」というデータもある。
Picture
「偏見」や「ステレオタイプな考え」を、取り除くためには、自らが発言し行動し証明しないと始まらない​

勿論、多くの人達の中には、どういう基準で「偏見」或いは「ステレオタイプ」と規定するのか?、それこそ、そちら側の「偏見」だ、或いは「Political correctness」だと、反論する人もいると思う。これは確かにある種センシティブな問題で、誰が発言するかによって、簡単に「偏見」のラベルが貼れる可能性がある。但し、だからといって、容認・黙認していたら、いつまでたっても「偏見」が蔓延り、結果恐ろしい「差別的な行動」を誘発してしまう。

私が26年前米国移住した時、ビジネス経験豊かな米国女性から「日本では苦労したでしょう」と言われて、私は「はて、何のことだ?」と思った。当時の日本のビジネス社会は、男性優位で女性はお茶くみぐらいしか仕事ないと、世界中の人達に思われていた。また彼女達は、日本出張の時に日本男性達の態度に非常な不快感を感じた経験もあった。そんな彼女達は「そこでよくビジネスキャリアを構築した」という点で、私のキャリアを見て驚いた、ということに、私は後から気付いた。もう四半世紀も経っており、法的な平等性は整備されているのに、なぜ今だに日本は変わらないのだろう? という素朴な疑問を、諸外国の人達は感じていると思う。

私が思うことは、諸外国にやいやい言われたからと言って、日本社会の「一般常識」はそんなに簡単に変わらない。「変わらない」というのは、「変える意思がないから変わらない」というコトに他ならない。根本的な問題は、アクティビストだけではなく、一般の日本の女性達が、森発言をどう受け止め、それに対してどう考えて、どう発言・行動していくかだと思う。当事者の意思がない限り、変化は起こらない。

私が、22歳から38歳まで在籍した日本のビジネス社会で、稀有なケーススタディとして、キャリアを構築できたのは、「この閉鎖的な仕組みを変える意思」が、自分にあったからである。22歳の私は「お茶くみや雑巾がけ、Faxのない時代のFax代わりとして、書類をクライアントに届けながら、毎日仕事が欲しいと上司に頼み込み、仕事を獲得していった。そしてもらった仕事を人の倍以上働きながら、実績を積んでいった」。私は、当時の「女性は2年勤務して寿退社(結婚のために退社する)」というステレオタイプの考えを変えて、男性と同様に(私の本音は彼ら以上に)キャリア構築をするという、強い当事者意識を持って、変革を起こしたと思う。

日本の一般の女性達が「女性への偏見」を変えるべく発言・行動するのを、私は待っている。当然起こるし、起こりつつあると期待している。


0 Comments

ひさみが選んだ&考えた言葉達㉜

1/24/2021

0 Comments

 
Picture
誰かに言われた「ひさみ語録をまとめてください」と。毎日様々な言葉がアタマをよぎるので、ここに記録していきたい。
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
Picture
0 Comments
<<Previous

    大柴ひさみ

    日米両国でビジネス・マーケティング活動を、マーケターとして、消費­者として実践してきた大柴ひさみが語る「リアルな米国ビジネス&マーケティングのInsight」

    Archives

    May 2020
    April 2020
    March 2020
    January 2020
    November 2019
    August 2019
    November 2016
    October 2016
    May 2016
    April 2016
    January 2016
    December 2015
    August 2015
    July 2015
    June 2015
    May 2015
    December 2014
    November 2014
    January 2013
    November 2012
    August 2012
    May 2012
    December 2011
    November 2011
    October 2011
    August 2011
    May 2011
    April 2011
    March 2011
    January 2011
    November 2010
    October 2010
    September 2010
    August 2010
    July 2010
    June 2010
    May 2010
    April 2010
    March 2010
    February 2010
    January 2010
    December 2009
    November 2009
    October 2009
    September 2009
    August 2009
    July 2009
    June 2009
    May 2009
    April 2009
    March 2009
    February 2009
    January 2009
    December 2008
    November 2008
    October 2008
    September 2008
    August 2008
    July 2008
    June 2008
    May 2008
    April 2008
    March 2008
    February 2008
    January 2008
    December 2007
    November 2007
    October 2007
    September 2007
    August 2007
    July 2007
    June 2007
    May 2007
    April 2007
    March 2007
    February 2007
    January 2007
    December 2006
    November 2006
    October 2006
    September 2006
    August 2006
    July 2006
    June 2006
    May 2006
    April 2006
    March 2006
    February 2006
    January 2006
    December 2005
    November 2005
    October 2005
    September 2005
    August 2005
    July 2005
    June 2005
    May 2005
    April 2005

    Categories

    All
    Book
    Business
    Culture
    Current Affairs
    Game
    Green : 環境・テクノロジー
    Healthy Life
    Influencer
    JaM Media
    Marketing
    Movie
    Music
    Obama Watch
    Online
    Politics
    Religion
    SNS
    Sports
    Technology
    Travel
    TV
    Twitter
    WOM (Word Of Mouth)

Proudly powered by Weebly