お誕生日だった母は電話で、かなりデンマークの風刺漫画の一件を気にして、「Davidとあんたは、ヨーロッパやイスラム圏の国に行く予定はないんでしょう?」と念を押していました。
私の本名は、Hisami Rasmussen(日本での戸籍名は、「ラスムッセンひさみ」というちょっと間抜けなカタカナとひらがなの組み合わせです)で、デンマークの首相と同じ 名前です。夫の父方も母方も、デンマークから来ており、日本でいうと「鈴木さん」という感じで、典型的なデンマークの名前です。風刺漫画事件でも、何回も 登場するデンマークの首相Anders Fogh Rasmussenの名前とともに、拡大するイスラム過激派の暴力や怒りを目にするので、なんだか呼吸ができないような重苦しい気分に陥ります。
今日のAP電によれば、アフガンの国境近くのパキスタンでは、2000人のプロテスターが「Death to America」と「Death to Denmark」と叫びながらデモ行進が行われており、すでに風刺漫画の作者たちの死に対して、100万ドルの賞金がかけられて、彼らは警察の保護下に 入っています。うちの夫は、デンマーク系のアメリカ人で、名前がRasmussenですので、とてもこの状況下ではパキスタンに行く事は、考えられませ ん。
伝統的に「言論・表現の自由」を重要視するデンマークでは、ラスムッセン首相は、言論の自由のもとで、私企業が行った判断に政府は介入できないとして、イ スラム諸国が要求する国としての謝罪を拒絶しています。すでにデンマーク製品のイスラム圏(20カ国)での不買運動は拡大しており、被害は16億ドルにの ぼると推測されています。こうした動きに対してデンマークをサポートするグラスルーツの動きも出ており、ベルギーのエンジニア学生Tijl Vercaemerは、ウェブサイトで 「言論の自由のためのデンマークサポート」を呼びかけており、(www.supportdenmark.com/) 、サイト運営の費用のために、「Help the Danes defend our freedom: SUPPORT DENMARK」のスティッカーを、$1~$15で発売しています。
この事件で、つくづく感じるのは、文化の違いによる基本的な価値観の相違です。これは、ベルリンの壁のように簡単には壊せないもので、この壁の存在と相違 を認めて、それに対して双方の異なるジャッジを押し付けないこと、これがコミュニケーションをするための出発点です。もともと風刺漫画は、イスラム社会に は「言論の自由」がなく、表現に自己検閲をしているということを証明するために行われたものです。そこがそもそもおかしい、もし「言論の自由」という価値 観が存在しない社会がモスリムならば、なぜ、それをあえて証明したいのか?西欧社会の価値観「言論の自由」のすばらしさを、彼らに押しつけたいのか?私に は理解できません。
この事件は、漫画という、最もヴィジュアライズしたカタチ、すなわち誰でもひとめでわかり、感情的になってしまうモノをきっかけに、ヨーロッパ社会に住む モスリムの人々の不信感や不満暴発のトリガーがひかれ、西欧世界の反モスリムへの証拠として、政治的・宗教的に利用された不幸な事件だと思います。
私の大好きな司馬遼太郎さんは、文化と文明の違いをこう表現しています。
「文明とは多分に技術的でどの民族でもそれを採用でき、使用できるものを指す。普遍性と言いかえてもいい。これに対し、文化は特殊なものである。他の民族 にはない特異な迷信や、風習、慣習を指す。文明は高度に合理的であるが、人間は文明だけでは暮らせない。一方において、他の民族には理解できない文化を一 枚の紙の表裏のようにして持っている。その不合理性が、民族の内部では刺激的であり、そのユニーク(特異性)が誇りになっている。そういう誇りの中に人間 の安らぎがあり、他者から見れば威厳を感じさせるものがある。」
彼は、また、文明とはジーンズのような普遍的なもので、文化とは着物のような、その民族固有のものだと、言っています。
確かに私たちは西欧文明の産物である多くの普遍的で高度に合理的なものを生活に取り入れています。ただ、それは民族あるいは個々人が、自らの意思によって選択したもので、他者に押しつけられて、いやいやながら獲得したものではありません。
自分がジーンズを毎日はいているのは、自分の選択肢であって、誰からも強制・指示されたものではありません。その視点から考えると、モスリムの人たちが ジーンズを毎日はいて生活している姿は、非常に想像しにくいのが現状です。民族固有の特異なもの、それが文化だとすると、そこから発生する価値観は、個々 の文化をもつ人たちの間で、大きく異なります。
昔、コーヒーのTVCMのキャッチフレーズに「違いがわかる大人のコーヒー」
というのがありました。コーヒーを飲みながら、大人として「違い」を考えながら、静かに話合う、そんな素敵な「コーヒータイム」を望むのは、やはり贅沢なことなのでしょうか?