物凄く格好が良くて、思わず
「小股の切れ上がったいい女」
という日本語が、アタマに浮かびました。この表現を調べると
・広辞苑: 「女のすらりとした粋なからだつきを言う/若い女性の姿態がすらりとしていて、いきな感じを与える様子」
・「小股」の意味: 足の親指と人差し指の間のこと。
・国語学者の解釈: この場合の「小股」は、直接動詞にかかって、「ちょっと、股が切れ上がっている」という解釈。
・足袋の製造過程: 完成した足袋は「小股を切る」という作業をして仕上げる。これは、足袋の親指を手で押し上げて細かい繊維を切って、足の指を動きやすくさせるため。ここから、「小股が切れる」とは足の親指を上にそらすことだと推察される。
・私の推測:下駄や草履を履いた時に、鼻緒(はなお)をしっかり指ではさんで、颯爽と歩ける、腰高の足の長い女性。
昔から、江戸の女は、「色浅黒く、小股の切れ上がった、粋(すい)な女」と言われて、田舎の「野暮」と対比させています。私も東京生まれの東京育ちで、初 めて東京以外の土地に移り住んだのが、ここサンフランシスコ・ベイエリアです。「色浅黒く」はぴったりですが、足が長くないので、先天的に「小股が切れ上 がった」という容姿にはなれませんが、せいぜい後天的に獲得できる「粋な」部分には、フォーカスしたいと思います。
話を戻しますが、まだ米国ではDVDで観ることのできない成瀬監督作品を、1月12日から2月18日まで、「Scattered Coulds: The Films of Mikio Naruse」というタイトルで、BAM/PFA(University of California, Berkeley Art Museum & Pacific Film Archive)で、 合計31本上映されます。以下が上映作品の英語のタイトルです(日本語はローマ字から私が推測して書き込んだので、漢字や仮名遣いがオリジナルと異なるか もしれません)。英語と日本語のニュアンスの違いと、タイトル自体が成瀬監督の視点を鋭く表現しているので、思わず、全部タイプしてしまいました。
Nightly Dreams(夜ごとの夢 1933年)
Flunky, Work Hard!(腰弁、がんばれ 1931年)
Tsuruhachi and Tsurujiro(鶴八鶴次郎 1938年)
Street without End(限りなき歩道 1934年)
The Whole Family Works(働く一家) 1939年)
Not Blood Relations(なさぬ仲 1932年)
Traveling Actors(旅役者 1940年)
Hideko the Bus Conductress(秀子の車掌さん 1941年)
Ginza Cosmetics(銀座化粧 1951年)
The Song Lantern(唄行燈 1943年)
A Tale of Archers at the Sanjusangendo(三十三間堂とうちや物語 1945年)
Repast(めし 1951年)
Mother(お母さん 1952年)
Lightning(稲妻 1952年)
Husband and Wife(夫婦 1953年)
Wife(妻 1953年)
Older Brother, Younger Sister(兄妹 1953年)
Late Chrysanthemums(晩菊 1954年)
Sound of the Mountain(山の音 1954年)
Flowing(流れる 1956年)
Floating Coulds(浮雲 1955年)
Sudden Rain(驟雨 1956年)
A Wife's Heart(妻の心 1956年)
Summer Clouds(鰯雲 1958年)
Anzukko(杏っ子 1958年)
When a Woman Ascends the Stairs(女が階段を上がるとき 1960年)
The Approach of Autumn(秋立ちぬ 1960年)
Daughters, Wives, and a Mother(娘、妻、母 1960年)
Her Lonely Lane(放浪記 1962年)
Yearning(乱れる 1964年)
Scattered Clouds(乱れ雲 1967年)
私自身、あまりにも成瀬監督のことを知らないので、監督のMuse(女神)であった高峰秀子さんのことも含めて、思わずGoogleしてみました。
今年で生誕100年を迎える故成瀬監督による高峰秀子主演作は、「稲妻」(1952年)、「あらくれ」(1957年)、「放浪記」(1962年)、「乱れ る」(1964年)などが代表作で、2人のコンビ作品は合計17本にのぼります、米国では、非常に評価の高い、黒沢明、小津安二郎、溝口健二監督に比べ て、あまり知られていない成瀬監督を、BAM/PFAは、以下のように紹介しています。
“Happiness is a concept that was invented in the modern world,” remarks a character in Mikio Naruse's 1952 film Lightning; the irony is that, more than any of the great Japanese directors whose equal he was—Mizoguchi, Ozu, and Kurosawa—Naruse's world is the modern world. It's just not very happy.
この監督の「幸せは、近代の世界で発明された一つのコンセプトだ」という言葉が、非常に気になりました。SF ChronicleのライターG Allen Johnsonによれば、監督は以下のように社会を見ていました。
" From the earliest age I have thought that the world we live in betrays us -- this thoughts wiht me."
(非常に幼い時から、我々は、裏切られることを前提とした世界に生きていると思っていた。この考えは今も同じだ)
また、黒沢明監督は、成瀬監督のスタイルを以下のように特徴づけています。
Naruse's style as being “like a great river with a calm surface and a raging current in its depths."
(穏やかな水面をもつ大きなな河のようで、その底には激烈な潮流が存在する)
今回の集中上映では、今まで米国で紹介されなかった成瀬監督の市井の人々の日常生活を描きながら、鋭い社会への洞察をベースにした、戦後の日本社会の価値 観の変遷を、紹介します。また、特筆すべき事柄としては、高峰秀子さんが演じる「自分の運命、成功、失敗に、積極的に立ち向かっていく、従来の日本女性像 とは異なる女性たち」にも、注目が集まっています。
高峰秀子さんは、すでに女優生活も文筆業も辞めて、一切マスコミに出ていないそうですが、キネマ旬報9月号の齋藤明美さんのインタビューで、成瀬監督が 1969年に亡くなった時に、彼女は「私という女優も終わった。・・・・つまり殉死だね。」と思ったそうです。当時、彼女は45歳という若さです。
やはり、冒頭の映画のシーンの通りに、高峰秀子さんは、まさに「小股の切れ上がったいい女」です。こんなに潔く、きっぱりと「殉死」なんて言葉を、言える 女優さんは、そうそういません。そこまで、完全に理解し合えたからこそ、2人の素晴らしいコラボレーションが生まれ、成瀬ワールドが完成したのだと思いま す。
こあたりは、是非、映画を観て、自分の心で 成瀬作品を実感してみたい、書いてみたいと思います。
PS: しかし、きれいなひとですね、高峰秀子さんは。こういう着物姿の写真がアメリカの新聞に載ると、日本人女性として、嬉しくなります。着物の着方もデザイン もすごくモダンで、まさにCool(クール)です。私も、いつか、このような着物を着て、サンフランシスコのUnion Squareを歩こうかな(笑)。