司馬遼太郎は、「文明が興る大地は、多様な民族を収容して食わせるだけの農業的なゆたかさをもっていなければならない。」という条件をあげて、「大地が食えるからこそ異文化の者たちがやってきて、るつぼの中で多様な文化群がすれあい、たがいに他の長所をとり入れ、たがいに特殊性という"圭角(かど)"を摩滅させ、ついにたれでも参加できる普遍性(つまり文明)ができあがる」と言っています。ここでの彼のポイントは、流入する民族は、その民族しかもたない「得意芸」をもっていて、それが文明成立の1つの要件だと指摘しています。
この「得意芸」という部分は、アメリカに住んでいると実感する言葉です。私も日本の文化やビジネス・マーケティングの視点・手法を担いで、アメリカに移住して、それを活用あるいは生業として、この国で生きています。もし、これがなかったら、アメリカ人の夫に全面的に頼って生活することとなり、私の人生は違ったコースをたどったかもしれません。
周りを見回しても、シリコンバレーに住む私の知人を含む移住者たちは、みんなおのおのの「得意芸(異文化)」をこの国に持ち寄り、それをアドバンテージとして(時にはディスアドバンテージにもなります)、米国の文明(普遍的なもの)に参加しています。シリコンバレーにおける、中国、インド、ベトナム、ロシアからの移住者たちのアントレプレナーシップは、そんな「得意芸」に支えられて、多くの新しいビジネス、サービス、製品を生み出しています。
司馬遼太郎は、「寿司」についても、「アメリカ素描」で触れています。彼が20年前にアメリカに訪れた時に、すでに「寿司」は米国社会に広まりはじめており、ロスで食べた寿司がとてもおいしかったので、彼はこんな風に「寿司」について語っています。
「寿司」の原形の一つは、「近江の鮒ずし」で、そのにおいの強烈さで、他の地域の人はかなり驚く食べものです。近世になって、大阪(諸国の人が集まるので、小さな文明が成立した)で、「箱ずし」という多数に通用する(普遍性の高い)すしが出来て、「鮒ずし」における臭みという魅力的な(しかし排他的な)固有の文化が除かれて、誰でも口に出来る「すし」が出来上がりました。
江戸は多くの大工や左官という職人が住んでいた土地で、腕がよければ「宵越しの金を持たないで暮らせた」ために、人々はさかんに美味しい食べ物を求めていました。この土地で初めて、「鮒ずし」や「箱ずし」といった伝統的な「なれずし」とは違う発想で、酢を加えた飯を用意して、屋台の客の前で即席で握り、江戸前の新鮮なサカナをのせるという、「にぎりずし(江戸前すし)」が誕生します。新鮮なサカナを使ったこの簡便な食べもの(Fast Food)は、万人受けする普遍性を備えており、その後日本全国に拡がり、アメリカも含めて、世界に広がっていきました。
すでに米国では、「カリフォルニアロール」に代表されるように、寿司は米国化して、どんどん一般の生活の中に浸透しており、スーパーマーケットでもテイクアウトの寿司は売られています。また子供たちの学校のカフェテリアにも「寿司」はメニューとして入っており、「トロ(Toro)」や「マグロ(Maguro)」という言葉も会話に飛び交っています。また、いまだに、刺身に抵抗のあるアメリカ人も、なぜか「寿司」は大丈夫のようです。
いろんな観点から鑑みて、アメリカは、モノやコトの「文明(普遍化)テスト」ともいうべき実験が可能な国のような気がします。ここで、モノやコトが、その普遍化へのテストを受けて合格すると、その後それはグローバルに広がっていきます。そのよしあしは別にして、世界の実験場としてユニークなポジションを持つアメリカは、住んでいて、とても面白い国です。