彼は、この本の中で、以下のように「文明」と「文化」を定義しています。
- 文明: 「たれもが参加できる普遍的なもの・合理的なもの・機能的なもの」
- 文化:「不合理なもの・特定の集団(たとえば民族)においてのみ通用する特殊なもの・他に及ぼしがたいもの・普遍的でないもの」
「例えば青信号で人や車は進み、赤で信号は停止する。この場合の交通信号は文明である。逆に文化とは、日本でいう、婦人がふすまをあけるとき,両ひざをつき、両手であけるようなものである。立ってあけてもいいという、合理主義はここでは、成立しえない。不合理さこそ、文化の発光物質なのである。同時に文化であるがために美しく感じられ、その美しさが来客に秩序についての安堵感をあたえ、自分自身にも、魚巣にすむ魚のように安堵感をもたらす。ただし、スリランカの住宅にもちこみわけにいかない。だからこそ文化であるといえる。」
この「婦人のふすまのあけ方」の例えに関して、私は納得しましたが、今の若い人が、このことを、どこまで「日本の文化」として実感できるかは、疑問です。私は、子供のとき、畳やふすまのある家で育ち、女性(婦人)としての立ち居振る舞いを、「躾け(身を美しく)」として、親から教わりました。今では、こうしたことを教える人や場がなくなってしまい、この例えは、わかりにくくなっているかもしれません。
彼は、もうひとつ「文明材」として、「ジーンズ」をあげています。彼の私製の言葉である「文明材」とは、「国籍人種をとわず、たれでもこれを身につければ、かすかに"イカシテイル"という快感をもちうる材のことである」と定義づけています。彼は、「ソ連の青年でもはきたがるジーパンを、ソ連の政府は生地を国産化したけど、生地の微妙なところが、イカさず、人気がなかったそうである」と言っています。
彼はまた、「普遍性があってもイカすものを生み出すのが文明だとすれば、いまの地球上にはアメリカ以外にそいうコトやモノ、もしくは思想を生みつづける地域はなさそうである」と結んで、最初は興味がなかったアメリカゆきの旅を、やってみようという気になったのは、この辺に理由があると、説明しています。
こうした彼の文章を昨晩寝る前に読んだ後、今朝、オートクチュールデザイナーのYves Saint Laurent(イブ・サン・ローラン)が、71歳で亡くなったというニュースを目にしました。彼の生涯に関するエピソードのなかで、「ジーンズに関する彼の想い」を読んで、驚いてしまいました。彼は、クリスチャン・ディオールに18歳(1957年)で弟子入りして以来、40年間に渡って、ファッション業界に革新的なアイディアを送り続けていました。特に1965年、20年代・30年代のパリのレズビアンにインスパイアーされて、男性のタキシードを、女性のファッションとして紹介するなど、常に新しいファッションを提案して、どんどん進化していった人で、クチュール界のピカソ的な存在でした。
そんな彼が、生前「唯一、デザイナーとして後悔していることは、ブルージーンズ を発明できなかった」ということだそうです。
「ジーンズ」は、ここサンフランシスコのゴールドラッシュの時に、激しい労働をする鉱夫やワーカーたちが必要とし丈夫な作業ズボンが起源です、1873年、ドイツ移民のLevi Straussが、テントの生地を使って、重いものを入れても破れないように、リベットで、ポケットを止めて縫製して、「ジーンズ」の原型が出来上がりました。150年以上の歴史を持つジーンズは、その後「労働着」から、どんどん進化を遂げて、ファッションアイテムとして全世界に広がっていきました。確かに「ジーンズ」は非常に合理的で、さらに司馬遼太郎が指摘するように、「誰もが少し"イカシテイル(=Cool)"快感」が持てるモノで、「文明の所産」なのかもしれません。
サンローランの「ジーンズ」への想いと、司馬遼太郎の「文明の所産としてのジーンズ」を考えながら、自分のジーンズを思わず、見てしまいました。