私の亡くなった父は、もともと8人兄弟の3男として生まれましたが、第2次世界大戦で2人の兄をフィリピンのレイテ沖で亡くして、結果、「繰上げ長男」となった人です。戦争の末期、父も18歳となり、徴兵にとられましたが、運良く、父は片方の耳が難聴気味で、徴兵時の身体基準の「甲乙丙」で、「丙(多分そうだと思います)」となり、さらに車の運転免許を持っていたので(1944年当時は普通の人はまだ中々持っていませんでした)、結果、外地(中国大陸)に行くことなく、戦車の操縦者として、終戦を迎えました。習志野の軍隊の教練場で、上官にアタマを蹴られながら(上官は戦車の中で戦況を見ながら、右折の時は右側、左折の時には左側の父のアタマを蹴って指示したそうです)、戦車を運転していた父は、難聴気味というハンディキャップで、危うく戦死を免れました。すでに、2人の息子を海軍で亡くしていた祖母は、父の出征の時に、耳元で、「必ずどんなことがあって帰ってきなさい。何が何でも死んではだめだと」とつぶやいたそうです。一度も会ったことがない、亡くなった2人の叔父たちの写真は、いつも祖母の仏前に飾ってあり、セーラー服を着た20代前半の叔父たちは、まぶしいぐらいに若々しく美しい笑顔であったのを記憶しています。
今日は、夫と2人で、サンフランシスコに着岸されている第2次世界大戦の潜水艦「Pampanito」による、戦没者の慰霊のセレモニーに、自転車で出かける予定です。 Alamedaからフェリーに乗って、式典の始まる午後5時までは、ゴールデンゲイトを渡ってマリンまで行ってサイクリングを楽しみ、その後セレモニーに参加したいと思っています。
夫は、この歴史的な潜水艦の補修・修理を、仕事で行っており、さらに彼は米ソの冷戦時に、原子力潜水艦で、大西洋や北海、バルト海を潜っていた人なので、今日のセレモニーには参加したいと強く望んでいます。
今朝は、2人で戦争のことをいろいろ話しましたが、その時話題となったのは「精神的にも肉体的にも傷ついて復員してきたベテラン(復員軍人)」のことです。私は、子供時代に、街角に、戦争で足や腕を失った人たちが、白い装束で、アコーディオンを弾きながら、お金を求めていたことを思い出しました。昭和30年代後半(1950年代の後半)の話ですが、子供だった私は、彼らがとても悲しげで、なんともやるせない思いで、彼らを見ていたことを記憶しています。子供にとって、実際に戦争によって肉体的に・精神的に傷つけられたベテランを見るのは、重要なことだと思います。歴史として、戦争を受け止めるのではなく、実際に人を通して、戦争を知る、そういう重要なことが学べます。
アメリカは、第2次大戦以降も、朝鮮戦争、ベトナム戦争、第1次、第2次の湾岸戦争、アフガン侵攻、イラク戦争と、多くの兵士の命が失われて(もちろん多くの市民も巻き込んで、多くの命を奪われています)、多くの傷ついたベテラン(復員軍人)が帰国しています。彼らの犠牲は大きく、それをきちんと報いていない米国の実情を、今日も夫と2人で話し合いました。
夫は私に、「敵国だった潜水艦のセレモニーだけどいいの?」と聞きましたが、私は「日米両国の兵士がおのおのの戦争で亡くなっており、1人1人の命の重さと犠牲は、同じだと思う」と答えました。今日は、亡くなった2人の叔父への冥福を祈りながら、セレモニーに参加したいと思っています。