日本語では「責任」という言葉で1つにまとめしまう
なぜか、英語の“Responsibility” と “Accountability”という言葉がアタマをぐるぐる回っている。辞書ではともに「責任」と訳されて、"Accountability"は「 説明責任」といった注釈がついているが、英語本来の意味からすると時制とその用法に違いがあり、時制に関してはAccoutabilityは過去に起きたコトに使われる。
- • "Responsibility":すでに起きた(過去)或いはこれから起こる(=未来)事柄や決定に対する責任の所在を示す。
- • "Accountability":すでに起きた(=過去)決定や行為の結果に対する責任、またそれを説明する責任を表す。
- • "Responsibility":「誰の責任であるのか?」。担当或いは責任を負うコト、タスクやイベントの所有者。
- • "Accountability":「誰が責任を取るのか?」。倫理やガバナンスにおいて、起きたコトに対する説明や回答することができて、非難を受けて責務を取ることが可能。
以下の英語の説明は的を得ていて、"Responsibility"は他の人と共有することは可能だけど、"Accountability"は他の人と共有できないという点が大きな違いだという指摘は納得できる。
「担当者」は「責任者」ではない
日米間のビジネスで、この「責任」という言葉に関して、かなり大きな温度差を感じる。米国ではまず真っ先に、「このプロジェクトあるいはタスクは誰々が責任者である(役職に関係なく)」ということを全員に明示して、彼あるいは彼女を中心にプロジェクトがスタートする。
日本ではそれとは異なり、「まず担当者(=責任者とは決して言わない)」を紹介されて、部署のチームメンバーの構成と紹介が始まる。もちろん、プロジェクトは「担当者」が「窓口」となり進行していくが、「責任を取る」という表現で"Accountability"を背負う人が不明のままに推移するパターンがかなり多い。
私が突っ込んで「責任者(=意思決定者)は誰ですか?」と質問すると、「あえて言うならば部長(=上司)になります」という答えが返ってくる。ただし、長い間プロジェクトを一緒にしてきても、「その部長」が意思決定をした様子はなく、また滅多に会うチャンスもなく、契約書の「部長のサインあるいは印鑑」のみしか、私たちは知らない場合がよくある。
「責任所在が曖昧な組織」で動く場合、コトが悪い方に転ぶと原因究明がしにくく同様の失敗を繰り返す可能性が高い
日本のビジネスのやり方は、「責任」を決して個人に落とし込まず、「部門、部署、チーム」といった人格を持たず「責任所在が曖昧な組織」に紐付けて、実践することが特徴といえる。「個人のがんばりの総和」ともいうべきものが、この不思議なビジネスエクササイズを支えている。またあえて"Job description"も明解にしない理由も、部門を越えてお互いが支援できる融通さ(フレキシビリティ)につながっていると思う。
私は別にこうした日本的なビジネスの仕方を否定している訳ではなく、日本の企業の間では十分通用するやり方で、それで成功しているときは問題はないと思う。ただし、コトが悪いほうに転んだ際には、このやり方では、「なぜ、こういうことが起きたのか?これは誰が責任を取るのか?」という「accountability」が不明のまま、原因究明が行われず、同様な失敗を繰り返す可能性が高いという点は指摘したい。
江戸時代に農民たちが一揆を起こす際に、誰がリーダーであるかをわかにくくするために、傘が開いたように円形状に順不同に署名するもので、真ん中は「空(何も書かれていない)」状態になっていた。当時一揆のリーダーは打ち首獄門や磔刑など厳罰が処せられたため、「責任者を隠す」ために利用されていたもの。「Accountability」という「誰が責任を取るんだ?」という部分を、最初から不明確にし、尚且つ署名した人の上下関係まで曖昧とするものだった。
日本での企業の不祥事をつらつら眺めていると、ずいぶん多くの人達は"Accountability"と"Responsibility"の違いを認識していないということを実感し、さらにこうした企業文化の中には、この「傘連判状」の遺伝子が無意識のうちに埋め込まれているのではないのか? という疑問すらわいた
。あまりにも「空」な状態で「責任を説明されても」、誰も納得できないし、「傘の中」に署名した以上は、「すべての人に責任がある」という自覚が必要だと思う。ビジネスにおいては、往々にして英語的なアプローチの方が、物事がクリアになる場合が多い。
私個人としては、"Accountability"と"Responsibility"を使い分けて、「責任」の意味を考えながら行動したいと思う、しんどいけれども。